昨日は一昨日同様異常ともいえる強風で苛々がつのりました。
境内の「そろそろ咲くぞ」と蕾を膨らませて成長したユリの鉢がバタバタ倒れそれを直しても縛ってもその強風は鉢をぶっ倒しまくりました。とはいいながら空は快晴でしたので本堂等への被害はありませんでした。
さて「波津と静波の地名は隣町でいて意味真逆」とは昨日のブログを見た知り合いからのメール。
どうやら「波津」の名に「津波」をイメージしたようでした。
なるほどそれを津波と解せば今の旧榛原町の柏原、川崎に代わってつけられた「静波」とは真逆です。
しかし文字を逆さまにして意味をつけるという例を知りません。
私は以前の私の「波津」について記したように「津波とはカンケーない」ことを記して彼の納得を得ました。
川の名については付近恐ろし気な名を付けられた「死人川」など記していますがこの波津の湊=「津」とは樋尻川の河口付近の事を言いました。
どこかでも記していますが今の萩間川(相良川)の西側にあたりますが、そもそもその川の現在の位置は付け替えられた川です。
その付け替えられる前の川の流れの址が今の樋尻川というのが古い相良の伝承ですね。勿論現在の流れの場所にも川が流れていたのですが・・・
この「津」の発祥は鎌倉時代といいますのでいわゆる「相良みなと」の大元です。
コレも地元の通説ですが、その樋尻川をくねくねと(Googleマップにも細く青色で記されています)拙寺、大澤寺方向からの図がわかりますが、その拙寺手前の新聞店の海方あたりに船着き場があり、海運物流の拠点となったといわれています。
今ではそれを想像だにできない溝程度の流れしかありませんし、拙寺近くのその川の痕跡は暗渠となっています。
叔母の話によれば、一昔前まで(おそらく戦前)はその川は確認できていたといいます。
拙寺近隣には小さな稲荷社がありますが、そちらには相良城関わりの石垣が2個無造作に置かれています①~⑤。
何らの案内板も立っていません。その路地は超地元の人のみしか通行しませんので、「知る人ぞ知る」の部類、他所の方では知り得ない代物です。
以前は何が記されているか判読可能でしたが、今は「何か記されている」程度にその石に彫られた文字を見ることができます。
この稲荷社は相良城に向かう百花通りの入口にあたりかつ、その新聞屋さんからさらに伸びる川の直線上にあたります⑥⑦。
あと、今年4月8日にオープンした下波津の津波避難タワーからの図を・・・上記場所についてはこちら。
⑮右側の屋根が拙寺とそのバックが小堤山。⑨は樋尻川と浄心寺墓地。⑬の道路のラインが昔の海岸。枯れた松が見えますがこちらも以前ブログで記したことがありました。
かつて道路の左側には松並木と土手がありました。この先に乃庄さんと根上松があります。
一番最後の画像は海水浴場方向。7月1日の海開きを目指して急ビッチで海の家を作っているところ。
微かに富士山が見えます。
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野村幸一 (日曜日, 04 6月 2017 00:58)
先月、墓参に行った時に妻も波津の標識を見て津波を連想しておりました。私も由来を知らなかったので津波と何か関係があるのだろうと思っていました。
津波の避難所も見ました!その後に標識を見たので更に連想したのかもしれませんね。
ちなみに、私の母と曽祖父の庄十(しーちゃんの親父)は北海道時代に南米チリ地震由来の津波に遭遇しています。
今井一光 (日曜日, 04 6月 2017 07:36)
ありがとうございます。
波津の地はかつて安政大地震の際津波がきた記録がありますが
最大被害地域は萩間川を逆流した昔の相良湊付近と聞きます。
それは大江や相良地区です。
ただしそれにしても波津とは今風に見て感じのよくない地名です。
野村幸一 (日曜日, 04 6月 2017 08:14)
どうしても今は連想してしまいますね。東部に沼津市がありますが、沼地の湊…みたいな感じなのでしょうかね?
前回のブログに出てくるまるで家系図のような過去帳は素晴らしいですね!
先日伺った時にふと気になったのですが、お寺の門の前にある墓地は大澤寺の墓地とは違うのですか?
釈から始まる法名ではない法名?戒名?の彫られている墓石を見受けました。
今井一光 (日曜日, 04 6月 2017 09:24)
笠原家ならではの過去帳ですね。
あれだけ古い時代のことが残っていることが奇特なことです。
拙寺の門前にはかつて喜盛庵というお寺がありました。
戦前の話で、昔はこちらは竹藪の様だったそうです。
今は小堤山の南に泰盛寺(曹洞宗)として移動しましたが跡地が墓地となっています。