しかし「時代劇の悪代官」風役回りをよくもまぁこのご時世に演じられるものか、まさに永田町は茶番の聖地ですね。
「水戸黄門」や「遠山金さん」を見ているよう。
『誤って「芸家」に落つ』は天才絵師(海北友松)の謙遜した言葉でしたが、好きで役者・芸人になっているセンセー方たちときたら・・・恥ずかしいことこのうえない態を見せつけています。まぁあの世界の顔ぶれを見ればマスコミ・タレント・スポーツ選手と「成れの果て」をも想う職種となっている様。
クビにしたといわれる文科省事務次官のこのほどの「総理のご意向」の「有る無い」問答など最たるものですね。
総理の不都合をリークさせた腹いせに官邸主導で前川喜平氏のプライバシー(「出会い系バー」への出入り)を新聞週刊誌に曝露させるところなど何ともケツの穴の小き悪徳代官の仕業。
たとえそうであったとしても何らの違法性はないですからね。
政府のジタバタ感が伝わってきます。
何よりご当人が国会喚問に応じる(~「ソーリの意向文書は確実に存在」)と言っているにも関わらず拒絶する姿は先般の大阪の幼稚園の件と同様。
失態がバレたらうるさい奴は口を塞いで無かったことにするなんざぁ時代劇の悪役役人のいつものパターン。「ヤバいから呼ばない」・・・まるでお子様。だから茶番と思われても仕方なし。
都合の悪い事は無かったことにしようという姿が見えています。そもそも人間ですからそれ(隠し立てしたい事いろいろ)はある筈で、容認すへきこと多々ありますがこと国のトップにある人ですからね。子供も見ていますよ。
ご当人はその辺りの雰囲気が分からないのでしょうか。
誰が見ても道理に合っているとは言えないでしょう。
あのままうまい具合に何事もなかった風を装うのであれば善良な市民としてはもはや「必殺仕置人」を頼むしかないのかも。
どちらにしろコズルいことをやられていながらそれらを放置、その悪システムをただ傍観している一市民の私があります。
まぁ「時間が解決してくれるでしょ」と如来さんと苦笑している昨今です。
アメリカ国内と同様、中心部からの「リーク」ほど決定打となるものはありません。
悪いことにはフェアプレー「内部告発」によって正しましょう。是非に貴方様もお立ち上がり下さい。
さて、五月もそろそろ終わりではありますが旧暦でいえば「そろそろ始まり(皐月)」というのがこの時期。
「さつき」を紐解けばその「さ」+「つき」の「さ」とは「耕作」を意味するようです。という事で田植えの月であり要は「梅雨時」のことが本来の「さつき」です。
この頃の芭蕉の句で一番に思い浮かぶのが
「五月雨を あつめて早し 最上川」です。
どなたでもご存知の句ですね。たしか中学校の国語の教科書で初めて触れたものと思います。
「五月雨」(さみだれ)が梅雨の大雨であると解せばまさに激しい流れの最上川を推することができます。
そこで今一つ芭蕉の句。
「笈も太刀も 五月にかざれ 帋幟」
(おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり)
「笈」は背負子の一種ですが弁慶を表し「太刀」は勿論義経をイメージするグッズ。
芭蕉は「木曽義仲」好きではありましたが、やはり「滅亡」「敗軍の将」ということでは兄に追われた義経も同様。感ずるものがあったのでしょうね。
昨晩のNHK「日本人のお名前」は「佐藤さん」でした。
国内200万人と断トツ1位(鈴木さんは2位160万人)の苗字ですね。
あいにくとこちら相良の拙寺檀家さんの中ではその名は見当たりませんが・・・
私の「佐藤クン」のイメージは沖縄で知り合った「人のイイ 東北訛りのキツい男」です。
私が沖縄から引き揚げて数年間も地元ホテルに勤め、私どもが沖縄に出向いた時には色々と面倒を見てくれました。
現状消息不明ですが番組の中で「東北地方に圧倒的多数」を聞いてなるほどと思いつつ彼のことを懐かしく思ったところです。
是非再会し積もる話をしてみたいですね。当家の奥方とも共通の友人でもあります。
さて、先日来京都国立博物館の「馬町十三重塔」(佐藤兄弟塔 渋谷街道旧跡)について記していますがこの「佐藤」もやはり東北福島出身でした。
義経に同行し兄弟共故郷へは「帰らぬ人」となったワケですが、その上記番組でも彼らが取り上げられてビックリ。
地元では英雄だったのです。江戸期の一時期は「忠臣蔵」に匹敵するほどの悲哀を描いて庶民に絶大の人気を得た物語(「義経千本桜」)がありました。
その地元福島には佐藤氏、兄弟の菩提寺として医王寺があります。
福島といえば「信夫山」ともいいますが、昔からこの「信夫」(しのぶ)の地を治めたのが佐藤氏でした。
先日京都遠足におつきあいしていただいた布施氏があの「十三重塔」を見たあとに、「ほれ」ということでその医王寺画像を提供いただきました。
かつて「相馬野馬追」には行ったといわれていたことは存じ上げましたが「墓場放浪」をしていたとは・・・驚きです。
珍しい板碑状の兄弟の墓については私の所有する川勝政太郎先生の「日本石造美術辞典」への掲載はたまたまありませんでしたが、古い時代のものとしては異様なカタチをしています。
やはり「有名人の墓碑は名物」としてつい「薬効」に結び付けて削り取って服用、あるいはお守りにするという奇妙な風習があったようです。ひょっとして何代目かの墓かもしれません。
「森石松」など博打打ち、義賊等の墓を思い起こします。
尚「悲哀」のストーリーとは佐藤継信・忠信兄弟二人の妻が亡き夫の雄姿を讃えて自ら甲冑をまとって夫の姿を装い兄弟の母を慰めたと言います。
尚、この地は古くから修験道系あるいは真言系の宗旨を思いますが、東本願寺のサイト「真宗移民の記憶」によれば「相馬中村藩」復興等、度重なる災難に力を集めたことが記されています。
画像はすべて布施氏によるもの。
「瑠璃光山医王寺」(場所はこちら)の名称の通り、薬師堂があって本尊は薬師如来を想像できます。山号の瑠璃光も薬師の別名です。そのお寺の兄弟の墓碑を削って飲むことに薬として何かの病への効果を期待したのでしょう。
最後の画像、五輪塔のカタチは以前見た瑞巌寺のお隣、五六八姫の天麟院(てんりんいん)の洞窟のものに似ています。
ただし宝篋印塔の形式を残していますね。私は慣れ親しんでいる五輪塔のオーソドックスなカタチがイイですが。
どうしても違和感があります。
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