今度のバス遠足の初日は東山ドライブウェイで昼食。
お弁当を手配しています。
ここでピンときた方は京都通。
例の駐車場(東山山頂公園)で景色を見ながら・・・ですが、「お天気が悪かったらどうするの?」ではありますね。
まぁ雨が降ろうが晴れようがランチはとらなくてはなりませんので、そのときはバスの中でいただけばよろしいこと。
どうにかなりましょう。
私のこちらでの提案としてはやはりお天気が良くてこその場とはなりますが、青龍殿、将軍塚のステージからの景色です。
上記公園の先端からの景色以上に開けていますね。
ちなみに「青龍」といえば「東」。近江敏満寺「青龍山」も湖から見て東の山でした。
真下にはわれらのご先祖さんたちがいらっしゃる大谷祖廟もあって感激ひとしおの場です。
まぁ東山といえば古来から「葬送の地」。私が皆さんを引き連れていくのはブログタイトル的に言っても当然といえば当然でした。
青龍殿はデビューして、そうは時間がたっていない新名所ですのでまだ相良の皆さんも初めてという方が多いでしょう。
また、車の利用がなくては気軽観のある場所ではありません。
ちょっと京都に来て汗だくになってハイキングをしようという気にはなれませんからね。
まぁ本当の贅沢というものはそちらなのですが。
「東山ドライブウェイ」なる夜景の良さそうな道路と公園に私が初めて来たのははるか昔のこと。
昨年末に亡くなった京都の叔母さん(93歳)の車に乗せられてのことでした。たしか大阪万博に父母らに連れて来られた際だと思います。
当時は子供心に「うんざり」感漂うものがありました(車は嫌いでした)が、歳を重ねて洛中を一望にできる東山の良さは人さまにも伝えたいほどに感じるようになっています。
私どもが行くのはお昼ですが夜景は最高でしょうね。
その公園に向かうには二通りの方法がありますが、大雑把に言えば「三条か五条か」です。三条橋から山科のコース(名神出てストレート)が大谷祖廟からの直近で、朝来た道を戻るように粟田口処刑場方向に向かいます。
先般、猪の猛進をスタッフが自力で止めたとニュースのあった蹴上の「ウェスティン都ホテル」前を右に行ってスグ左に登る分岐を上がっていきます。決して広いとはいえない道ですが公園駐車場までこの分岐から約5分という近さですね。
話は戻りますがこの「猪事件」、出た場所も驚きましたが、ホテルのスタッフ殿の「命がけ」、瞬時の行動には感心。
お客第一の鑑ですね。武勇伝をお聞きしたいものです。
あとその後の猪はホテル調理場の露と消えたのでしょうか興味津々。
つまるところこのドライブウェイはその三条と五条の東山の付け根あたりを縦貫するような道で中心にその公園と現在は青龍殿という新名所ができあがったというワケです。
その五条側の接続する道が昨日辺りまでブログで登場している渋谷街道です。
今は山を東に超える山科方面と直結する片側2車線のバイパスが走っていますのでその方向(南へ)へ抜けようとすると下り口が二つ。
東大路通、京都国立方面に向かうには直進、山科方面には右に降りることになります。
この道を右に下りればそちらがいわゆる「歌ノ中山」です。
清水寺の音羽の滝の先、清閑寺までの道を「歌ノ中山」と呼ばれています。
今でこそ清水寺は耳に親しいものがあって、清閑寺(山号は「歌中山」 場所はこちら)の方は「それほどでも・・・」と思われます。しかし実は歴史的に見て清閑寺も清水寺同様各伽藍を備えた大規模寺院だったといいますね。
その頃と言えばお隣の清水寺との領地争いでお抱えの僧兵が出張ったりする時期もあったほどです。
没落の二大要員は以前からブログで記しています①応仁・文明の乱による荒廃と②明治維新(寺領取り上げ)ですね。
①で灰燼に帰したものを時間をかけて復興したところ、廃仏毀釈でぶっ壊されて経営基盤である土地を国の手で収奪されてしまいました。
こちらの寺はその荒波を乗り越えることが難しかったのでしょうね。
さて、昨晩の「歴史秘話」は高松塚古墳でした。
デジタル復元の画像と文献記述の内容から大宝律令の儀式が高松塚の壁画に描かれていると推測、これまでの天武天皇の息、忍壁皇子を高松塚古墳の被葬者とする説を裏付けたと殆ど「断定」されていました。
忍壁皇子の父、天武天皇は壬申の乱で大友皇子滅ぼして天智天皇のあとを継いだ天皇として有名ですが、これは天皇家そのものの内紛の結末。以後その轍を踏まないように心がけるのは親として、天皇としての義務でしょうが、何せ皇女も皇子も多数、配下の守役も多数、色々と「利権」も絡んで裏で暗躍する何者かが必ずといって出現し、あるいは時としてよからぬ政府転覆なる噂も捏造されるなど、誰も彼もその地位は不安定そのものだったでしょう。
そのような皇位継承の争いを勝ち取った者であろうとも、傀儡となって本意を遂げられない天皇となったり若くして病を患って病没する人もいました。
この「歌ノ中山」に二人の天皇の陵墓があります。
天皇名も無数にあって大学入試前は「順番に言えた」ことは確かですが、今となってはすべて頭の中はカラ。
しかしこの両名の名は、京都の街区に少々詳しければ、よく耳に馴染んだ語で、通や地名にもなっています。
「六条」「高倉」の両天皇の墳墓が山の丘陵に並んで鎮座しています。「六条御殿」といえば「本願寺」というように今の地図上では五条と七条の間辺り。また高倉通の方は観光ガイド等お馴染み、より頻出する通名です。
この両名の生きた時代は平氏の台頭、興隆と平清盛対後白河院という激しい権力闘争の中でした。
詳細各ググっていただければと思いますが、六条天皇の年齢だけでも着目していただければその当時の権利関係の複雑さというか無茶苦茶さが分かります。
歴代最年少即位といわれる生後7か月。在位期間2年8か月で譲位して上皇(これも最年少上皇)に。
亡くなったのは11歳といいます。
六条天皇が譲位した皇子が高倉天皇だったわけで、彼も擁立は8歳だったと。建礼門院(平徳子)中宮に迎えて子が安徳天皇(1歳で即位)、当人は20歳で亡くなっています。
この数字だけを見ていればその状況たるや・・・ハッキリ言って無茶苦茶な時代。
昔から天皇は表向きに居てバックに強大な実力者が居るということは同じようです。
「天皇」を利用する輩が一番悪いヤツ。
それはまず往々にして政を牛耳る者ですね。
まぁ平清盛と同様、「いつかは滅ぶ」のですが。
許されるのであれば今上天皇に改憲についてどう思われるか聞いてみたい。
あの人はわかっています、歴史というものを。
昭和天皇も「それでいい」といった憲法でした。
来週のNHK「歴史秘話」は岩村城、本家本元の「女城主」のようです。これは楽しみ。
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