季節がら各地「藤」の花の咲き誇る様子が伝えられています。
まぁこの季節、何処かしら山道など車を走らせばあの紫色に目がいかないワケがないくらいそう珍しいものではありませんが、要はそのメジャーレベルの「藤」というものはまずは人口構造物で管理されたもの。「藤棚」というヤツですね。
当地にもその名所と呼ばれる場所が各ありますが、その日立ち寄った清浄寺境内にも藤棚がありました。咲いた藤色を見て初めてそこに藤があったことに気づいたワケです。
そちらの下ではちょうどpetit花見宴会(2人だけ)が催されていました。のこのこそういう場を通過するのは気がひけるものです。
藤枝の蓮花寺池公園の「藤」も有名でこちらは「藤枝」の「藤」(どちらが先かなどは知りません)と推測。
蓮花寺池近くの藤枝東高校のユニフォームの色も昔から「藤色」でした。
しかし、こちらのお寺の「藤」はきっと神奈川県の「藤沢」の「藤」だろう・・・と勝手に納得したのでした。
藤沢といえば私にとっては馴染みのある土地で、今はなき東急ハンズの棚卸手伝いに行き来したこと、妹夫婦ほか知り合いも多数住まうエリアです。
昨日ブログで遊行寺について記しましたが正式名称は「藤澤山 無量光院 清浄光寺」。
この名から藤沢市はその寺の門前町が発祥のように感じます。ちなみに「無量光」は「無量寿」と同様、阿弥陀如来の別名。
そして当地勝間田氏の「清浄寺」の名称はその「清浄光寺」からであることも。
それにしても戦国時代の武将たちの傾向というものは自ら居住する地を「都」同様に真似ることをします。
それが今でよく囃される「小京都」ですが、勝間田氏の場合その方向性はそれらとはまったく異にしているところが特筆的。
時宗という仏教史観に則った街づくりを所望したであろうというところです。
それが時宗総本山の遊行寺への憧れであり、その町をそのまま遠州の地に再現しようと試みたのでしょう。
下図は昨日ブログの画像を再度。
赤丸で記した場所が上記③~⓼の藤沢公民館。
戸塚坂から北方向、実はこの「藤沢」から西の台地に上がる農道があります。
⑨⑩は川崎小学校ほか当地に残る「川崎」の名称。
祖父の時代では榛原のことは「川崎」、コレは当たり前の地名でしたね。一昔前の過去帳には榛原、静波などの名称はありません。このあたりは「川崎」と記されています。
⑪~⑮は戸塚坂を降りて市庁舎方向、勝間田川にかかる「戸塚橋」。⑫が下流、海の方向⑭が上流です。
この朱色と灯台風のデザインは「いったい何?」と首を傾げるところありますが、これはこの一つ下流にある橋の名「港橋」をイメージしているのかと。
その橋とこちらの橋あたりまでが当地の港湾ですから・・・
しかしアレは勝間田氏のイメージとは掛け離れているとしか言いようがありません。
勝間田氏と勝間田城についてひと盛り上げを計っている当地ではあります。しかし勝間田城下のイメージを誘引するものであるべきですが、いかにもその意図は抹殺され、おかしなカタチに仕上がっています。
「大磯」の地名は台地上に「大磯原」として今も残っています。(それぞれ位置関係はこちらに)
墓石は清浄寺最上段のものですが(ブログ)イイ味を出しています。しかしそちらに設置された昭和44年の掲示板の記述をよく見れば少々疑問に思います。
「宝篋印塔を加味した五輪塔」の表現ですが、いかにもオカシな言い回し。
あの石塔を見てそのまま記している他は考えられませんがどう考えても「レゴ」の如し。パーツを適当に組み合わせているとしか言いようがありません。
土砂に埋もれて散逸発掘、たまたま出てきた各パーツを適当に重ねただけでしょう。
隅飾りの立具合に時代的古さを感じ、格狭間や基台の飾りも手が入って美的ではありますが、宝篋印塔パーツに五輪塔各パーツをごちゃ混ぜに積重ねたという感。きっと無茶苦茶ですね。
ただし見まわしたところ宝篋印塔の一番目立つ上部の相輪のパーツが見当たりませんね。そこは特に壊れやすく欠損しやすい場所でもあります。
まずは「宝篋印塔を加味した五輪塔」との断定はあり得ないところ。
稀に「それを推す」ものがありますが、そもそも宝篋印塔は宝篋印塔、五輪塔は五輪塔なのです。
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