井伊直親の菩提寺だったといわれる大藤寺は明治まではあったようです。
経緯はわかりませんがまずは廃仏毀釈のあおりを喰らったと考えるのがスジというもの。
このお寺の名「大藤寺」を見れば彼の戒名を見て納得というところでしょう→直親の墓。「大藤寺殿剣峯宗惠大居士」です。
ちなみに「墓の中身」についてですが、楠戸義昭氏の書籍によれば・・・
「朝比奈泰朝にとられた首は南渓和尚が蜂前神社の荻原宮司を使いに出して、掛川城からもらい受けてきた。遺骸は頭と体を一緒にして棺に納められ直親の祝田屋敷近くの都田川河畔で荼毘にふされた」
「直親の墓は都田川と堤防の中間に建てられた。その堤防をはさんだ場所に大藤寺が建立された」とあります。
ということは・・・お寺の名前が後・・・ということになり、また墳墓にはしっかりと当初は遺骨が納められていたということになります。
天正三年(1575)に大藤寺を建立する際に「井伊次郎法師」が奉納した「千手観音像」は今のドラマの中で南渓和尚が彫っているシーンがありました(通称「世継観音」~高さ25㎝~)。
先日、大藤寺から龍潭寺に移ったその仏を納めた厨子の裏側に「新発見」があったとの報道。
まぁ寺の遺物の量も膨大なのでしょうが、「それほどのものをこれまで気づかないとは?」と、この「発見」には少々首を傾げました。何せ万人に判読可能の文字で仏像の云われについて記されていたのですから。
「井伊氏代継観音」とし、天正三年に大藤寺を建立する際「井伊次郎法師」が奉納したと南渓和尚の名とともに記されているのです。
まさかとは思いますがいかにもとってつけたような感じに「ならないこともない」というワケであります。
尚、この仏像については静岡市の県立美術館の特別展「戦国!井伊直虎から直政へ」(8/14~10/12)での展示が決定しているようです。
もっと意表を衝いたのが「小野政次の墓」(以前はこちらにて)ですね。
コレはまさに今、地元で「一旗あげよう」という企画があって今後整備を進めていきたいというアナウンスがありました。
私は何度かこの地を歩いていますが、先日コレを見て驚きました。以前(またはこちらまたはこちら)この周辺をブラついた際にはまったく気づきませんでした。
井伊谷城の東に二宮神社がありますがその北東側、井平や新東名引佐方面に井伊谷川沿いに進む国道の手前にあります(場所はこちら)。
グーグールのストリートビューで見ても現在の如くではないくらい新しい「企画」? あの時たまたま通過した地元タクシーの運転手が顔を出して、「こんなのここにあったぁ?」・・・それって聞かれても・・・「こっちが聞きたいくらい」でした。
私の知ってる小野道好(政次)は以前から記していますが井伊家にとって仇なる人物でいわゆる敵役。その人物を今更もちあげて出所不明説も交錯するこの墓石を「彼のモノである」という断定は如何にも拙速の感。まぁこれはドラマの演出効果でしょうが、当地史料に詳しい専門家の意見を聞きたいものです。
実際に彼の墓といわれるようになった「墓石」のある場所は彼が斬首獄門となった井伊谷川にごく近いということは確かのようですが・・・
画像、頭が尖がっている石碑がそれだといいます。⑤は以前からある祠の墓碑。⑦が国道の橋から下流⑥方向。⑧は上流方向。いずれにせよ伝承ではこの辺りで小野政次は獄門に処せられています。
勿論彼の子供二人も同罪。政次の弟の方が存続家系となります。こちらで小野家の子孫が散見されるようですがそちらの系統といわれます。
小野といえば当時はそれほどの「大罪人」でした。
「罪人」には大層な墓碑は作られないという先入観がありますが果たして・・・。
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河東村出身者 (日曜日, 30 4月 2017 06:53)
「国衆の戦国史」によると、小野政次/道好悪者説は江戸中期以降からで、その以前のものはないとのことです。まあ、高天神城の小笠原氏が武田信玄に降伏したともしているので半信半疑ですが。
今井一光 (日曜日, 30 4月 2017 07:08)
ありがとうございます。
「大罪人」の先入観は「獄門台」ですね。
「国衆の戦国史」の高天神城の記述についての評価としてはいかがですか?
塩崎利幸 (土曜日, 05 5月 2018 09:48)
小野政次の二人の子供はなぜ子押されたのでしょうか?そもそも奥
様は誰でしょうか?墓石は政次の石の横に2つありますがその墓石が二人の墓石でしょうか?資料がございましたら教えてください。
今井一光 (土曜日, 05 5月 2018 17:06)
ありがとうございます。
小野但馬(政次)については全く詳しいことがわかっていません。
他の井伊家に登場する人々も直虎はじめどちらも確定的な人物像はなく
みな推測だけが独り歩きしているのだと思います。
塩崎様の御疑念はまさに的を射ておりますが、どれもこれも詳細は不明ということになります。
通説「子供が二人」いたことになりますが、奥方の出は不詳のようです。
男子が二人ということになると父親と連坐して討たれることは戦国期にはよくあることですので不思議はありませんが、それが事実だとすれば但馬の罪たるや余程許容できないような不忠であったことが推測できます。
子供に対しての助命嘆願の声がなかったとすれば奥方の出自は有力家系ではなかったのかもしれません。
すべて推測の域を出ず恐縮です。