私は自身この世にあること自体がひょっとして「不適切」・・・「お粗末」の類、当流風に言えば「煩悩具足の凡夫」のうちでもサイテーな男であるのではないかと思うことがありますが、やはりその「不適切野郎」はどこにでもいらっしゃるということで少々安心しているところです。
大臣さまはじめ政治家って「そもそもバカ?」と思わせる昨今、昨晩の復興省更迭辞任劇は日本全国失笑モノの類。
関西弁でいえば「アホ」でしょうか。当地の放言でいえば「トロイ!」と吐き捨てるような人でした。
唯一、あの程度なら「どなたでも大臣になれます」と国民に周知させる人格と素性でその役職のハードルの低さを改めて示したということはある意味「よかった」のかも知れません。
とても身近に感じました。
さて、私の小田原在住時代、草サッカーチームの代表のようなことをしていたことは以前触れていたかと思います。私と「奥の墓道氏」が最年長でした。
ゴールキーパーの「工藤」クンの身長195㎝?がウリのチームでしたのでチームの名は「苦道」と彼の名をもじって採用。
その名の通りチームは「弱すぎる」と形容できるくらいの実力でしたが(サッカー経験者少なし)ただひたすら楽しんで夜間練習に試合に励んでいたことを思い出します。
当時は人の苗字にあれこれ詮索して聞くという風にありませんでしたが、今思うと「遊佐」クンや「天野」クンなど前述「工藤」クンとともに面白い苗字だと思いました。
今現在連絡は途絶えてしまいましたがみんなイイ奴ばかりで懐かしく感じます。
「天野」について考えますと、小田原近隣では天野康景をまずは思いますね(タケノコシーズンですが皆様お気を付けください)。「どちへんなし」(「~どちへんなきは天野三郎兵衛」)とその公平で慎重といわれる彼の性質を表したものです。
まぁ、こういう為政者「政治家」が居たということ・・・、
「昔の日本は良かった」。
実はその天野クンもそんな「どちへんなし」を推察できるような性格でした。
天野氏は出自は伊豆発祥と言われ、藤原南家説が有力。
やはり工藤氏の流れです。
「工藤時理(ときまさ)の末裔の藤内(とうない)遠景が伊豆天野郷(田方郡長岡町天野)に土着」とあります。
その辺りの件は勝間田、横地、井伊(北家説存在しますが)と同様です。
その伊豆の天野が各地に展開し天野姓を広げたというところでしょうが、遠州の天野といえば下地中分政策(→昨日の高根城「領家」)で山香荘に地頭として入った系でその後も「天野」は各地にまた複雑に歴史上に登場してきます。
遠州天野の複雑化したという感覚は山香天野家についての詳細が不明なところ、今川家の配下に長らくあって義元が桶狭間にて憤死してからの遠州忩劇の際に天野惣領家(天野七郎右衛門)が「寄親」(寄親寄子)としての地位を剥奪されて天野家の支流(天野宮内右衛門藤秀)が一円支配の跡目を継承したこと、今川-武田-徳川の三すくみの中で翻弄し続けられたことです。
私が初めて犬居城に出向いたのは相当以前の事。遥か昔。
ブログに載せるという意図もなく撮影もテキトーでロクな画像もありません。
しかしあの城には高根城同様「今一度行きたい」という気持ちが沸き起こってその「とりあえずの風呂敷」をここで広げておこうと記すことにしました。
現在は「浜松市天竜区春野町」という区割りに入りましたが以前は水窪町同様「周智郡」です。私にはあそこが「周智郡?」とも思わせるような場所ですね。
周智郡といえばどうも掛川袋井辺りをイメージしてしまいますので。
場所はこちらですが、ポイントとしては入り組んだ気田川(けたがわ)の流れを掘として利した南面する山城です。この地区を「気田(けた)の郷」と呼ぶ文献(三河物語 天正二年)もあるようです(手抜き あたっていません)。
犬居部落の背後という位置になりますが「行者山」の山頂部、二俣や森方面に至る街道を見やる城です。
勿論信州方面からの南下を抑えることが当初の今川方の城としての使命だったと思われます。当初はこの山の頂上に城は無かったというのが通説で、いわゆる国人領主の方形館が気田川脇にあったものと・・・
南側が崖で徳川勢が城攻めに苦労したことが窺えますが、徳川勢侵攻の対策として実戦デビューしたというところでしょう。
これはこの城の名称が天正二年以後にのみ登場するということからです。
私は「犬居」という字面の発祥を思うに、上記三者(今川・武田・徳川)のうち一番に弱小と思われた徳川に攻められた折り、「自分たちは強い・・・背後には天狗が居る(もともとの行者山の名から)」を誇称したと考えてしまいます。お隣のお国もその傾向が強いものがあると感じますが、いわゆる宣伝活動だったのかも。
これも「こじつけ」とご指摘を受けるかも知れません。
「犬」の字は古くは「狗」、コレは「天野」の「天」と「狗」で「天狗」です。
万人が超獣超人の象徴として畏怖する「天狗」が守護する(「居る」)と勝手に解釈しています。
まぁこういうことを記したりするとどこかでそれをチラ見した方がそれをさもありうることとして吹聴し、往々に正論となったりします。そういった伝承はどこにでもありますから・・・
ほどほどにしておきましょう。
さあ、いつ頃までの宿題にしましょうか、楽しみです。
というか気が向いた時に・・・
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河東村出身者 (水曜日, 26 4月 2017 23:17)
犬居城といえば横地氏が14世紀半ばにこの地への拡張を試みたはずですが、よくこんな山の中にと思わずにはいられません。
今井一光 (木曜日, 27 4月 2017 00:04)
ありがとうございます。
静岡県の沿岸部の台地、平地での生活が長い私が
時に内陸に入ったときの感動は他の比較にはならないですね。
一瞬間「うまい空気」と「鳥の囀り」に触れて「心洗われる」などと
口にしたりします。しかし山谷深く、移動は難儀して生活の困難さを思います。
特に内陸部の平行移動たとえば春野町→川根町など古道はあったようですが
実際に行けば想像を絶します。