祝田蜂前神社都田川向う  井伊谷側  井伊直親墓

昨日の大河ドラマで面白かったのは「人買い」の部分。

あの辺りの時代考証は渋目です。

私としてはもっと突っ込んで欲しいと期待しましたが、シナリオが事実不確定の部分の演出進行ということ?もあって、脱線は禁物の様、戦国期の泥臭い歴史部分はいらないということでしょう。

 

さて、昨日は目賀田城の満開のサクラをアップしましたがサクラつながりで井伊直親の墳墓を。

遅い当地の満開にあわせて「花見」と称して遠州三河方面を遊び歩いた時のモノです。

あの時は長雨のあとの晴れ、気温の上昇、サクラの満開、そして平日というベストタイミングでした。

齢を重ねてくるとそれまで皮肉たっぷりだったサクラ(渋川凱旋門)に対しての思いいれが微妙に変わってきたようです。

それにしてもサクラと青空と墓はよく似合いますね。

 

直親の墓は龍潭寺の井伊家墓域、直虎の隣にあるものが有名ですが、あちらの方はほとんどモニュメント風。

渋川の東光院にもありました(こちらも)。

 

直親は井伊谷への帰参がかなったあと、井伊谷ではなく祝田の館に入りましたね。

以前記した三方ケ原大地の裾にある蜂前神社あたりが「祝田」の地ですがその神社の都田川を隔てたちょうど向かいの対岸に直親の墓があります。

以前は橋の近くにあったようですが、土手の改修により現地に移されているようです(場所はこちら)。

墓石は幾度かの川の氾濫に晒されたのでしょうか、宝篋印塔であることが分かる程度の残存状況で摩劣もキツイものがありました。これ以上の風化に耐えられないようにも思えますが。

 

永禄五年に掛川にて朝比奈泰朝に討ち取られた後その遺体がどのようにしてこちらに搬送されたのかはわかりませんが、墓としてはこちらが一番に本筋のものでしょう。

しかしそれは遺体なのか首だけなのか、遺骨を持ち帰ったのか遺髪だったのかあるいは遺品をベースにしたものだったか不明です。まぁ上記の一つ一つで十分に墓を作る理由あるワケですが。「墓は誰でも何処でも好き勝手に作れる」コレ基本のようですね。

 

直親が愛用した「青葉の笛」を吹いている画が額に納められていました。大藤寺伝剣峯宗惠大居士は彼の戒名。

最後の画像が墓から川向うの蜂前神社、三方ケ原方向。