比牟礼神社神主で御家人  異色の輩出  目賀田城

「そんなとこで何してんだ?」「突然視界から消えた・・あはは」と人をからかう言葉とは裏腹にあの時私は必死でしたね。

 

金剛輪寺の側溝にズリ落ちて前のめりに転んだ時です。

秋ごろでしたので落ち葉に足を滑らせたのですが、コレは「齢のせい」とは言えない要因を含んでいます。

 

カメラをつい守ろうとして受け身を怠るという愚です。

あの際は中途半端な動きをしてしまいました。

スリップして転ぶまでの「0.5秒くらい」の間、色々な事が頭をよぎります。

それは衆人を前にその「パフォーマンス」は恥ずかしいことですが、すでにバランスを失っている状況ですから考えなくてはいけないのは無事に着地すること。

ところがその時はカメラ小僧でそれを首から下げていましたので一瞬カメラを保持するかそれを無視して手を付くのか迷ってしまいました。

結局溝の空間の深さよってカメラは衝撃を免れると判断して手を付いたのですが、溝のコンクリートの縁にレンズ部が当たってしまいました。

 

大した衝撃でもありませんでしたが、確認すると広角部分でシャッターが押せないという(オートフォーカスの変調)症状。

新調か修理かさんざん迷った挙句、メーカーに送って修理見積もりを依頼しました。その時は当初の私の腹積もりに反してその約倍の35000円。

 

ショックはありましたがお方様の怪訝な顔をよそに修理をGO!昨日修理完了して返却がありました。

 

ありがたや、中間見積もりより約10000円の減でした。

これからストレスなくカメラを向けることができます。

ただしカメラは移動時はリュックに入れておくことは教訓となりました。もっともあの寺の参道は山道でも何でもないところでした。

ちなみに私を罵ったのは勿論お方さまです。

 

さて、昨日の目加田城。

恒例「江州佐々木南北諸士帳」の愛知郡には

 

目加田城主   佐々木籏頭随一小倉源氏

       元弘建文之乱四辺籏頭山岡目加田

     元亀元龍ケ鼻合戦野洲川一番備 〇目加田摂津守秀

 

目加田城主   佐々木籏頭        目加田越後守

加田城    佐々木随兵        目加田文六  目加田城                 目加田伊代入道目加田城                 目加田伯耆守 目加田城                 目加田女正  目加田城    佐々木随兵小倉源氏    岸本佐馬亮

 

と、かなりページを割いていてウェイトの高さを物語っています。

 

それによれば目賀田(目加田)氏はあきらかに小倉氏出自を推測するところがあります。

やはり愛知氏目賀田氏と同様に「愛知・神崎・蒲生」三郡あたりにその名を残した家系ですが、この記述は謎で昨日の私の独断、「愛知氏は目賀田氏同族?」をさらに複雑化してしまいます。

そもそも違う出自の家々が婚姻当重ねて出たり入ったり、復姓したり婿入りして名を戻したり、表に出てこない混同混乱が多々あるように感じます。

 

小倉氏に関しては近隣の蒲生氏とも関係のある一族ともいいますが離散して当地の残留は数件、全国的に平均すれば少なくない姓ですので「こじつけ」は無理ですね。

何よりもこちらでは「目賀田」の名が有名ですので「何か」をきっかけにその名は当地の歴史から消えて行ったのかと。

もっとも上記三郡でいえば歴史的に大いに名を馳せたのは蒲生氏でしたが。

 

昨日記しましたようにこの目賀田城は一見したところ中世国人館の形態、例の100×100mの方形。

そういうところから信長時代に新規に城を求めたという感覚にはならず目賀田山(安土山)を追い出された目賀田氏が入ったのは旧自領安堵+αの土地で手を打って、その地にかねてからあった館にさらに堀を掘って土塁をかきあげたというのが私の考え。

 

画像は何度か通過した際に撮り集めたもので、桜のシーンなど以前のモノ。看板も新調されていますが以前のモノもアップしました。内容はそちらにありますので割愛。

城址は住宅が集合する場所にありますが、しっかりと公園整備されており、その「国人領主館」の形状をよく残した城です。地元の城址公園の維持管理に敬意を表します。

 

以下「日本城郭大系」の「目加田城」の記述。

 

「目加田城は南に宇曾川の支流、岩倉川を控え、その北に方形に土塁と堀をめぐらせた単郭の館で、北東より小河川と自然水により堀に引き水し、南の岩倉川に通じている。

門は南東の位置に構えられており、北西部には堀に橋を架けていたようである。

 

目加田氏は藤原氏の出で、鎌倉時代より御家人格として佐々木氏に仕え、正慶元年(元弘二 1332)以後、文献上に登場し活躍するが、分家も多く、周防岩国の吉川氏が出で、また越中取越城主となったものもある。

 

目加田宗家は「二郎左衛門」を名乗った。

貞和三年(正平二 1347)に六角氏頼に従い河内の藤井寺合戦で活躍し、分家で近江八幡市の比牟礼神社の神主職となった五郎兵衛信職は御家人でもあって文武に秀で、建武年間(1334-38)には足利尊氏に従って摂津・河内・山城等の地で奮戦した。」

 

とありました。

 

下図はレンズの納品書。今度は上手に大事に取り回したいです。

カメラを守ると怪我をする。それは本末転倒といいますね。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    野村幸一 (日曜日, 23 4月 2017 01:29)

    20年前に初めて伺った知人宅脇の側溝に暗闇の中落ちた事があります。一瞬の出来事、更に闇の中…受け身をとる間も無く側溝脇の石に顔面から直撃です。ただ、不幸中の幸いか。。。?上顎の前歯に直撃したため顔の見た目には怪我はありませんでしたが、上顎の前歯は崩壊です(笑)歯があっちこっちに向き一本は根本からスッポリ抜け口の中は血まみれの地獄絵図。その怪我が起因し、この歳で入れ歯でございます。

    お怪我をなさらぬように…

  • #2

    今井一光 (日曜日, 23 4月 2017 08:33)

    ありがとうございます。
    アメフットの友人も差し歯でした。息子も差し歯。
    結構に前歯というものは(外に一番近い場所ですから)
    「事故」に遭いやすいものと・・・。
    手が使えない状況が重なれば受け身ができませんから・・・大いに注意すべきですね。