愛知八幡聖徳太子伝承と  淡海公藤原不比等  墓

いいお天気で気温は20℃超えとはなりますが、何分強風が吹きまくって今一つ落ち着けない雰囲気です。この2~3日吹きどおしですからね。

瓦の件(その後は落下がありません)もありますし冷や冷やです。

 

昨日記した寶満寺の真っ隣にある八幡神社には自然石を利して建てられた墓があります(場所はこちら)。

明らかに後世になってのものと推しますが、神社由緒も含めて掲示板に記されている内容といったらいかにも大昔の話です。

 

まずはこの八幡神社の縁の件、聖徳太子伝説がありました。

「八幡」といえば武運を祈る神(時代的イメージとしては平安後期)そして聖徳太子といえば当流親鸞聖人が崇め数多くの太子を讃える和讃を残したことでもお馴染みの人。

 

真宗寺院であれば必ず御堂余間には太子像の軸か太子堂がつきものであるくらい宗旨的にも仏教にも縁がある仏教推進派、我が国に仏教を根付かせる元となった人でもあります。

 

どういうワケで武将の好む神社に祈願したのかという経緯は不明です。しかし聖徳太子といえども「戦闘参加」についてはあったようですが、そのお相手といえば物部氏(廃仏派)はお約束です。

社の伝承は聖徳太子「危機一髪」についてのもので、戦闘中?物部守屋に追い込まれた?聖徳太子がこの本殿に祈願したところ「こちらに隠れろ」と神託があって身を隠したところ万事セーフだったというお話。

小々変わった聖徳太子伝説です。

 

時代に加え地域的違和感は当然です。

物部氏といえば戦国期に守護佐々木系を下剋上した地元浅井氏がその祖であると表していることから、浅井氏包囲網から窮地を脱した佐々木六角系の当時の英雄クラスの人物を太子信仰にあわせて話を「盛った」可能性があります。歴史世界ではその手のおはなしはまたぞろですからね。

 

また今一つのものが前述墓碑の件。

「淡海公(たんかいこう)御墓」です。

「淡海公」とは藤原鎌足の次男の藤原不比等のこと。

亡くなったあとに贈られた名でした。「淡海」は「あわうみ」→「おうみ」で琵琶湖の事ですから、彼とこの地の関係を探りたくなりますが一言で不詳、御説多々あるようですがみな「推測の域」のようです。まぁこちらに彼の墓があるということもちょっとばかり腑に落ちませんね。

 

ただし飛鳥時代に中大兄皇子(天智天皇)が近江滋賀郡に都(大津宮)を遷していることに微妙に関係がありそうです。不比等の父親の中臣(藤原)鎌足は中大兄皇子とともに「大化の改新」を断行したことはあまりにも有名なこと。

またその後の壬申の乱で勝利した大海人皇子(天武天皇)の「大海人」(おおあま)なども「うみ」に携わる人と解することができて大いにこちら琵琶湖を中心とする「うみ」との関わりが漠然ながら推察できるところです。

 

最後の看板は字が読み切れませんが一応。

その前の看板の由緒記に「信長は佐々木氏一族の愛知小十郎に命じて」の件、「愛知小十郎」の名は初見でした。南北諸士帳の愛知郡の東円堂に佐々木随兵「愛知四郎」の名はありましたが。

 

寶満寺と愛知八幡神社の間には1本の道がありますが、その道を隔てて現在の町名は違います。こちらは八幡(やわた)町、寶満寺側が泉町です。