人を、と言っても息子ですが叱ったり、あるいは自身自戒する場面というものはまず、「同じ間違い」を繰り返してやらかした時ですね。
失策を繰り返す事は人間ですから「ある」といえばあることである意味致し方ないことではありますが、こと自身と身近な縁者がその主体となった時は案外「またか!」と腹が立つものです。
要は学習していないこと~あるいは記憶が消えた~になりますので関西風にそれをからかえば「アホ」ですからね。
親としての立場、その「教育的指導」のスタートといえば「言い聞かせ」です。
ところが色々な事を口を酸っぱくして、まくし立てたとしても毎度毎度の同様の失敗をしでかしていれば、いい加減怒りも通り越し唖然となって口をつぐみたくなってしまいます。
よくニワトリは3歩、ネコは3秒で「物事を忘れる」といいますが、果たして人間はどのくらいなのだろう・・・と考えたものでした。それは自分も含めてですが・・・。
仏教で「自分のアホさ加減」を知る事はその道を歩むうえで必須事項です。「知る」というか「知らされる」ワケですが、それを当流では「私の無知」(無明の闇)を阿弥陀のスポットライト(仏の慈悲心―智慧)に照らし出されて気づかせて(すくいとって)いただくということです。
ちなみに正信偈では
摂 取 心 光 常 照 護
已 能 雖 破 無 明 闇
の件。
さて、当家には血圧計がありますが、このほど息子の血圧を測ってみると上の方が130超え。
私ですら今のところこの時期(カロリー摂取過多と運動不足ですが)は120代です。夏場の体がキレている時(昨年まで)などは「100とび代」とまずまずコントロールできているよう感じています。
彼の「130代」には少々驚かされましたがその理由については合点がいっています。
隔世遺伝とは思いましたが父親の食事に対するこだわりが殆ど一緒なのです。
食事の味付けが濃いものが好きであるということですが、彼の場合「○○の一つ覚えの如く」やたらと食材に醤油・ソース・辛子・タバスコなどをかけまくる習性があります。
そこへ来て大のラーメン&うどん好きですからね。
何よりも一人暮らしでくだらないプアな食事を摂り続けた結果でしょう。
当然に親としてはその趣向に対して苦言を申していたのですが、一向に修正されず、そうなるべくしてなったとしか言いようがありませんね。
私の父はそういう場合、私の意見などは聞かず、「平気だよ」の語でその場を濁していましたのが思い出されます。
当時から私はその「平気」は無知なる者の最悪の語であると理解して現在の当家に於ける禁句になっていますが。
「無知」は法律的に言えば善意。「無実、潔白・・・」であって英訳すれば時に「イノセンス」なる語もあるようにどちらかといえば「よろしい」という意味で使用されることもありますが、それとは別に「無教育」(時にアホ)と解される場合もあります。
本当はそちらの解釈の方が圧倒的ですがね。
ここでは息子や父の「食生活の偏向が高血圧を招く」という教えを「知らなかったこと」(無知)なのでしょうが、何度も何度も繰り返しその事を知らせていても改善が見られないということは、「人の意見に耳を貸さない」という「傲慢」もありますね。
これは性根の問題でしょうが、本質的に心の中に「この習慣を継続していたらヤバい」というリスクの重大性という学びを受けてこなかったという悲しさがあるのです。
それが事の重要性、本質的問題を軽視しすぎるという傾向に繋がるのでしょうね。
どちらにしろ私はそういう家系に居る者ですし、胸に手を当てて考えれば十二分に「似たり寄ったり」の躰。
まぁ少なくとも息子に関してはトコロテン(生まれた順に死んでいく)で願いたく、先に逝かれてはかないませんので強い修正改善を思索していきます。これはまだまだ修正可能といいますし。「まともな食生活」に戻していただきたいものです。
さて、アルツハイマーという痴呆症があります。
先日も檀家さんで60代後半で発症して施設に入所したという事案を耳にして愕然としたところです。「若年性」の部類になると思いますが理由はまったく不明と縁者は訴えていました。
このアルツハイマーには「7つの認知症危険因子」というものが判っていて、どちらも早期に修正していけば発症を遅らすことができるといわれています。その中に面白い語が含まれていました。
私の復習のためその「7つ」を列挙させていただきます。
①喫煙
②運動不足
③低教育水準
④高血圧
⑤糖尿病
⑥肥満
⑦うつ
なるほどと思ったのが③の低教育水準。
あらためて「なるほど」と合点。データによればアルツハイマー発症の50%は「それ」(の改善)で防げると。
そもそも③に関連して色々な事を熟知するということは
③以外の6項目への認知対応が可能だということですからね。
生涯趣味を見つけて何か学習を続けることは大切だということも含みますね。新しい発見を常に求めよということでもあります。
画像は啓蟄頃(今年は3月5日)の一幕。
「ツグミ」捕食の図です。ツグミは冬になると境内を走り回っていますがそろそろ旅立ちの日が近づいていますね。
渡り鳥ですから春以降その声が聞こえなくなるということから「口をつぐむ」と。その状況からその名になったといわれています。
彼らは虫たちの活動が始まるといわれる啓蟄すぎの今、どんどん食べて体力をつけて北へ帰る準備をしているのでしょう。
⑤⑥⑦は静波墓苑の図。案の定切り忘れたというか指示をまっとうに聞けなかった息子のやり残し(唖然でした)を家族総出でやっつけに行きました。
隣地境界の樹木(カイズカ)の剪定です。
姿など気にせずただのぶった切りですが、これは以前も記しましたが、防犯上の問題です。
下部をバッサリやれば閉鎖的空間とはなりません。
その意に反して隣地では境界線底部に色々な物を並べられているよう。
木を切ったことでモロに露出してしまいましたが当方の問題ではありませんのでそのまま放置です。
色々な物が捨てられていますのでちょくちょく顔を出していないといけませんね。これからは雑草対策となります。
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