相良野村家について時折記していますがそちら以外の商家について。
相良本通りの発祥は家康の鷹狩陣場が建てられたことを端にしそれが相良の街づくりの第一歩となります。
その「新町」への移住推奨の御触れと勧誘によって財力のある商家が集められていったわけですが、拙寺はもともと相良の大沢から本通りに「降りてこい」の沙汰をしたのが家康。それに応じたものでした(拙寺古文書)。
よく他のお寺さんに言われることに「大澤寺檀家さんには本通りの大店商家が多い」ということがあります。
たとえば廻船問屋系の野村、小田、羽田、山﨑、伊東、伊藤の御一統から小山、布施、板倉、岩倉、藤田・・・あげればキリがありませんが、どちらの店も一昔前までは「お大尽」と言われるような繁盛を謳歌した家々です。これが田沼の城下町たる由縁です。
そういった大店が拙寺の「有徳なる人」として顔を並べていたおかげで天正期から始まって江戸、明治・・・そしてこれまで長い間15代にわたって寺の維持できていたのだと思います。
それら商いをとる店たちの浮沈を見て「世の流れ」の諸所の無常を感じるのですが、やはり「呉服と廻船」を生業とする家業はもはや残っていませんね。
流行り廃りと一言でいうのはカンタンですが、洋装一本の時代への変遷に和装はもはや対抗し、盛り返すことなどできないような・・・そしてまたいまや「海運」などあり得ない時代となってしまいました。
考えれば信じられないような変わり具合です。
江戸期はといえば大量商品物流といえば「海運」以外考えられない時代。その利権システムに喰い込めることができるだけで大きな財が約束されたものですね。よって相良本通りの廻船問屋といえば、相良川(萩間川)沿いの本通りでも東側の市場(いちんば)から川から引き込んだ相良城の堀に面していました。
近江の武佐や安土方面から8号線沿いを北上し愛知川を渡りさらに宇曽川を超えた辺りに「又十屋敷」の看板が目に入ります。「又十」の屋号で呉服屋を始めて、後に北海道松前藩との関係を深めて、廻船業を営んだ藤野喜兵衛喜昌の旧宅です。蝦夷で大成した近江商人として名がある人です。
相良本通りで前述した各家のご先祖は殆どが「近江商人」ですね。
最後の画像が本願寺派の西還寺。「西に還る」の名を見ただけで「本尊は阿弥陀如来」を思いますね。
又十屋敷の斜向かいにあります(場所はこちら)。
⓸の五輪塔などはこの地区にゴロゴロ出て来る代物ですのでごく普通ではありますが、石材も違いますしとてもアンバランスですね。
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河東村出身者 (火曜日, 07 3月 2017 05:30)
平山優氏の武田氏滅亡を読んでいるのですが、岡部元信が武田方で高天神城に入場した理由が、「海運を利用して駿河から補給を実施できる」ことであったとの記述があり、おおっと思っています。三河小笠原氏も同じく海運の一族で、小笠原諸島に名を残していることから考えると、高天神城の海運はとても発達していたのかもしれません。
今井一光 (火曜日, 07 3月 2017 09:04)
ありがとうございます。
「敵塩」ではありませんが武田氏は「海」への憧れを侵略によって
解決しようとしてきましたね。
その話になるとやはり「塩」の美談に話が転ずる傾向がありますが
本質は軍事と経済を兼ねた効率(物流)を意図していたことに違いないでしょう。
今の高天神は結構な内陸に感じますが、当時は駿河湾に通じる水路の整備がなされていた
と思われます。
土方より南の中村山砦の西側にたしか海渡橋なる橋が架かっていますがそのものズバリ海運、ことに相良方面からの物流を示唆しているよう感じます。