ひな祭りといえば私のイメージする人がいます。
旧姓野村で、父母の時代から「先生」と呼ばれる本通り野村家の永田裕子さんです。
野村家裏の地所は相良城の堀跡にあたって、掘れば石垣の石が出てくるような場所。現在拙寺の門前に置かれた、石垣としては少々大き目と感ずる石はその野村家の門前に長い間置かれていたもので、永田さんから寄贈されたものでした。
「ノムラ」はブログにても何度か記していますが拙寺大澤寺の祖、今井権七らと近江-本願寺-紀伊を経て遠州に下った一味。
永田さんは父と同い年、父の名を「ちゃん」付けで呼ぶくらい馴染みのある人でした。野村家八代の野村庄右衛門三男の系統です。
ちなみに父は榛中時代に昵懇にしていたという人がこの辺りで相良の「ちょいと古い人」なら知らぬ人はいない「しーちゃん」(この人は野村庄右衛門八代の次男系)という方で、聞くところによると父はその方たちと「肩で風を切って」の形容がされているくらいの態様だったようです。
まぁその父親につき(寺の小僧なのに・・・)今の如くの私がありその息子があるということでしょう。
永田さんはボランティアで老人施設に出入りしていましたが、特にクリスマスとひな祭りといえば松ぼっくりやタマゴに彩色したり毛糸を利用した人形を作ったり、教室を開催しては皆を楽しませていました。
特にひな祭りはどうしても2体ということになって一番に張り切るところになります。
たくさん生卵を買ってきてはうまく中身を出す方法は・・・と試行錯誤した話も思い出されます。
おそらくたくさんの卵の出番となったのでしょうが、一体その中身はどうなったのか今でも謎のままです。
ということでひな祭りといえば永田さんが作ったひな人形であり、その日になれば永田さんを思い出すわけですね。
そのひな祭りの開けた4日、「早朝に・・・」と親族より永田さんの訃報が入りました。
ホントに「あっという間」、足の具合が悪いのは承知していましたが9か月前の施設入所からの介護度の進行は信じられないほどの急速なもので(入所時1、半年後5)最近は「ずっとベットのまま」と。
私は最期は不義理となってしまい後悔が残りましたが我が師匠といってもいいほど「相良の事色々」「昔ばなし」をご教授いただきました。父親からの目とは違うものばかりでとても新鮮でした。
鼻を垂らした当家バカ息子に「さん」付けをしつづけ孫の如く気にかけてくれた唯一の人でもあって息子にとっても仏対応の如くの感謝の人。
息子がぼけっと相良にいるうちにさっさと自身にケリをつけて「まぁ来てね」と思わせるその急逝の枕経に私と二人で伺いました。
さて、今川家家紋は「丸の内に二つ引両」が主ではありますが、
馬印には伝統的にいわゆる「赤鳥」がありますね。
本日は大河ドラマは「桶狭間」です。
まずこの「二つ引き」は演出的に今川家に不可欠なものですが、この「赤鳥」が出てくるかというところも見ものです。
①画像がそれなのですが、一見すると「コレって鳥?」と思うのはやむを得ないでしょうね。どう見ても「櫛」です。
この「赤鳥」紋の名称はそもそもその「櫛」からの変化ですね。
髪を結うという正装スタイルは実は「洗髪をしない」習慣であって当然に今でいう「不潔」だったワケです。
現代の私たちにはまず耐えられないでしょうが、髪の毛を洗うという習慣というか風呂などもない時代ですから、その対応処置にその「櫛」を使ったといいます。
要は頭皮からの分泌物をかきとるグッズがコレ。
「赤鳥は垢取」からだったのです。
「垢取」の名ではちょっと見苦しいですから「赤い鳥」に。
この赤鳥が今川家の縁起物となってそれを馬印として代々繋いでいったのでした。
②は永田さんが毛糸で作った「赤鳥」のぴーちゃん。
足の部分が櫛状に見えます。
③前述タマゴの殻を彩色したお雛様。
④故人は葬儀後適宜拙寺本堂余間にいらしていただくことになりました。ご自宅にはどなたもいらっしゃらなくなりますのでお迎えさせていただきます。
どうぞこちらにお参りください。
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野村幸一 (日曜日, 05 3月 2017 13:49)
亡くなられたのですか。一族でも付き合いが無いと存在すら知らないというところが多々あります。家系調査をする上で名前だけは認識していましたが一度お話を聞いてみたかったですね。
私の祖父は今でも古い人たちには悪しき記憶で残っているのでしょうね。。。生い立ちが切ない所もあったのですが、それで歪むのも性根が弱かったのでしょう…
本通りの野村家の方々とは全く面識がないのですが、ご冥福をお祈りしておりますとお伝えくださいませ。
今井一光 (日曜日, 05 3月 2017 21:00)
ありがとうございます。
野村家ご一統が相良を離れていく中で故人は御家のお内仏を護持してきた人でした。
色々な意味で寂しさを感じます。
どんどん相良の人口が減っていますし。