法要から帰ってみると「今日はきーちゃんが来た」と。
その方は先だてまで母がお世話になっていた掛川の施設の方。
特に面倒を見てくれた母の「仲良し」さんです。
先に現在世話になっている施設の母の様子を見てから、拙寺に寄ったとのこと。
一瞬コレは相当失礼な事になったのでは・・・と思いましたが母親はスグに「きーちゃん」を認識して「今日はお休み?」と応えたそう。「ああ良かった・・・」でした。
いつまでもこの状態が続いてくれればいいのですが、そもそも「きーちゃん」もそういうこと(記憶の消失)も十分あり得ると、半ば承知の上のことでしょうからね。
天気も良かったこともあって母の頭の中もスッキリしていたのでしょう。午前中は穏やかなお日和でしたから。
午後は例の会館の屋根の確認に上がる予定にしていました。
2時過ぎに帰宅したのですがその頃は何故か風がびゅーびゅーと吹き出して、梯子の押さえ役の「お北さま」に「今日は止めとけ」と言われました。
しかし風が吹くからこそ瓦か心配になりますので、「四の五の言うな」と強行しました。
勿論ハーネスとローブでの確保はしながらです。
こういう場合、支点を取る場所に頭を悩ましますがここでは詳細省略です(車を使います)。
上がってみてかなりのショック。
当初「釘打ち」はすべての瓦にあるのかと思っていましたが全くの見当違い。それはエンド部分だけで、固定は瓦土。
先に落ちた瓦の繋がりの部分の様子を見れば「ただのっかっているだけ」でした。
はめ込みから脱落してあの屋根の傾斜にただある瓦を3枚取り除いてから気休めとも思える発泡剤を入れておしまいにしました。今後の課題となりますが、定期的な確認作業は怠れないケア事項です。今検討しているのは見栄え関係なしで、シリコン注入後さっとモルタルを吹き付けることです。
さて、「京都国立」(京都国立博物館)は今年のバス遠足で向かうことになっています(海北友松展)が、以前に立ち寄った際、そちらの国宝重文がズラッと並ぶフロアに表記の「金銅五輪塔」が展示されていたことは今も目に浮かんできます。
厳密には「金銅三角五輪塔形舎利容器」というようです。
〈内ニ水晶舎利塔アリ/底ニ建久九年十二月重源施入ノ銘アリ〉と文化庁データベースにあります。
建久九年は1198ですので鎌倉初期ということになりますね。
また同じ建久九年の十二月十九日付の敏満寺宛ての重源寄進状が添付されています(双方とも重文指定)。
重源といえば晩年期に源平の争乱で焼失した東大寺の復興に尽力した僧として著名(東大寺大勧進)で一時は法然門下として浄土世界(南無阿弥陀仏)の道を歩んだいいます。
その仏舎利五輪塔の存在は当時より敏満寺が近江にてある程度の存在威容を確立していたことが窺えます。のちに比叡山、天台色へ変容している寺ですが平安期は藤原家の氏寺である平等院の配下にあった寺と聞きますのでここでも阿弥陀世界が漂ってくる気配がします。
五輪塔の特色としてその重源が元であるとは断定はできませんが、鎌倉初期の特色で「三角五輪塔」(重源様式)と呼ばれるものがあります。それは火輪の部分が三角錐に近いものがあって明らかに通常の四角錐形と違って見えます。そもそも重源と伝わる五輪塔もその形式ということがあってそう呼ばれているのでしょうが、やはりこちらの五輪塔も「三角」です。
勿論「国立」の実物は写真撮影不可です。
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