敏満寺大門があったから大門池 元名は水沼池

天から思わぬ意気消沈の沙汰(春の嵐)を受けた私でしたが、あの雨樋に偶然に引っかかっていた瓦を完全なカタチで確保できたことは大きかったですね。

よく見ると瓦には釘穴が開いていて、釘も刺さったままでした。

ということは屋根に葺かれた瓦は釘で固定されていることですね。

 

以前この屋根に上がったのは2009年の駿河湾沖地震で棟瓦が崩れた時ですが、棟瓦は瓦土で固定されていましたので「土ではマズイ」と思ったのでした。

ということはあの崩れ落ちた後に控える瓦たちが即座に落下することはないのではないかという楽観が生じたということです。とりあえず発泡プラスチック剤を用意しましたので天気の様子を見て観察、対応に向かうことにします。

 

発泡剤とは液状のエアゾルですが噴射されて空気に触れると膨張して固まる発砲プラスチックのこと。

あっては不都合な空洞や穴埋めに使用しますが、今回は瓦と屋根板の中空部分に充填して水などの侵入と固定を試みるというものです。

どちらの量販店でも販売されていますが、「知っている人は知っている」程度の代物でそうは需要は多くないですね。

 

「悪い使い方」として私が映画の中で見たのは銀行強盗が警報機のベルにこの剤を注入してベルの内側のハンマーを固定して鳴らなくしてしまったことです。

「なるほど」と思ったところでした。

 

いずれにせよ「何とか」しなくてはならないことでして、今回のそれはただの先延ばし、気休めにしかなりませんね。

 

さて、先日記した多賀の敏満寺。湖東三山(百済寺→金剛輪寺→西明寺)繋がりを記しましたが、おそらく規模スケールはそれらより上回って歴史はかなり古いということは確実です。

 

そのお寺が「今は無き」と歴史の中に埋まってしまっているというのがまた寂しいところです。

敏満寺の塔中は戦禍による焼失や不再興によりぱっと見その面影は有りませんが、青龍山域の西側に点在していたといわれます。西(日没)に開けた山の寺とすると阿弥陀浄土をも想う寺があったとみればますますそれに惜しいという気持ちが起こってしまいます。

 

その青龍山の西の麓には大門池なる池があります(場所はこちら)。この大門池の「大門」がこの山にかつてあった敏満寺の山門を差しているのです。

多賀町立文化センターの史料によれば、そもそものこの池の名は「水沼(みずま)池」と呼ばれていたそうでその「水沼」の音が「弥満」そして「敏満」と字の変化があったといいますので、この池の「本名」が寺自体(敏満寺)の名称となっているとのこと。

 

そしてこの池の名称は天平勝宝三年(751)の正倉院文書「東大寺近江国開田図」に出て来て、東大寺領荘園であったことがわかります。田園開墾が奈良の強大寺院のバックがあれば、それに伴った人々と寺院造営の動きも推測することができましょう。

湖東三山は天台寺院。敏満寺もその流れではありますが、その発祥は断トツで古いという可能性がありますね。

 

この大きな池を見て「まさか」とは思いますが、昭和初期に至ってもこの地区では村落同士で「犬上川騒動」と呼ばれる水争いがあったといいます。

近くに流れる犬上川周辺にはその手の紛争が東大寺領の頃から続いていたという歴史もあるようです。

水一滴に命を懸ける時代があったことを想うと日々水に対しての価値を失くしている(湯水の如く)傲慢生活を享受満喫している私についてやはり反省は尽きません。

 

航空図黄色の〇が大門池。その他池周囲の図。