石雲院→華厳院→修善寺 浅羽弥九郎幸忠

80歳を超えた独り暮らしのお婆さんが絶不調の状態に陥ったそう。流しで手を洗おうと立ち上がった瞬間、足に力が入らず震えが・・・「これは死ぬ」と思って救急車を呼ぼうと電話を取っても今度は目が見えない。

フラフラになって這いながら玄関の手押し車を押して表に出てからやっとの思いで隣の家のブザーを鳴らすことができたと。

 

「隣の玄関のステップで転んだ」と別の嫌味を言っていましたが、何とか救急車を呼んでもらって20日間の入院をして3日前に退院したとのこと。

お話を聞いていて「脳いっ血?」とも思いましたが、肝臓系の臓器の閉塞が原因だったようです。

 

とても幸運が重なったお話でほっとさせられました。

世に「自ら救急車を」という件を耳にしますが、要は電話機が手元にあってダイヤルボタンが押せてのこと。

モノが見えない状態に陥ったらアウトですね。各種体調不良が視神経にリンクしているということがありうるということを知りました。

 

さて鈎の陣で足利義尚が病没した長享三年1489の次は改元されて「延徳」になります。

場所は遠州と江州からは離れますがその延徳二年の華厳院文書に2通の寄進状があります。

 

華厳院は高天神城の近く上土方(旧大東町 現掛川市)のお寺で、高天神関係の古文書が多種残されています。

以前は井伊直勝寄進状について記しました。

 

先日も大河ドラマの台詞で瀬名姫をからかうシーンに二人の武将の名が出たなどと勝手に喜んでいましたがその「くしまさま」といえば「福島(くしま)正成」を思いますがこの「福島」は「ふ」を発音しないので「九島」「久島」説もあります。

何しろ不詳細な家系ではありますが殆どが「説」として断定できるものはありませんね。

 

そんな中ですが、一応は福島家2代が高天神城に入っていたことは私の頭の中にあります。城に入っていたという意味は城主というよりも今川家の城の城代というイメージで、今でいう会社組織でいう本社出向の店長といったところでしょうか。

 

福島家は今川氏親の頃までは今川家重臣として名が通った家系で正成(上総介)の父は佐渡守基正、やはり高天神城に入っているようです。そして摂津西成郡福島庄の氏盛(清和源氏頼光の流れ馬場氏)が「福島」を名のったとありました(「高天神の跡を尋ねて」)。この辺りの点は不詳の域でアテにはなりませんが。

 

幼少の今川氏親を丸子城に保護し、その後も駿府に入った氏親の補佐役となったため高天神城は福島氏のさらなる代理を置くことになります(店長代理・・・)。

そこで長享元年1487に浅羽九郎幸忠が高天神城に入りました。

明応四年1495に没するまでに彼が標記石雲院から僧を招いて華厳院を建立しています。

 

ちなみに浅羽氏という名を見れば遠州袋井、馬伏塚城のある浅羽を思い出しますね。今川義元時代になって高天神城に入る小笠原春儀も馬伏塚城からの出世組でした。

 

浅羽九郎幸忠は一代で高天神から姿を消していますが、この華厳院を創建したことにちなんでその子孫は伊豆の修善寺に移住。石雲院の僧を入れて曹洞宗にしたのもその関係かと。

いずれにせよ当時、その辺り(伊豆)に顔の効いた伊勢宗瑞(新九郎)=北条早雲のバックがあったことが想像できます。

私にはご縁がありませんが修善寺には立派なホテル「あさば」がありますね。

 

浅羽家の墓は本堂後方の高台、歴代住職の列に並びます。

 

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コメント: 2
  • #1

    河東村出身者 (木曜日, 16 2月 2017 08:12)

    福島家は本当に謎ですね。難太平記に今川了俊が「城飼郡が空いていたので所望したがだめだった」旨記述していて、その数十年後に中村に雑賀氏が来るわけですが、高天神城には雑賀氏は見えません。福島氏は高天神武将リストに何人か見えること、「くしま」姓はそれなりに現在もいることから、後北条に行った組以外も当地にいたものと推察しています。というようなことを考えているとやっぱりまとまりません。



  • #2

    今井一光 (木曜日, 16 2月 2017 09:46)

    ありがとうございます。
    中村の雑賀氏の雑賀姓はたしか数件地元に残っていたと思います。高天神城関係では中村と言えば「斉藤宗林」の屋敷が中村の満勝寺(雑賀氏からみ)の西にありますが日蓮宗のお寺です。話は飛んで斉藤宗林のある静岡市寺町宗林寺も日蓮宗。
    単なる偶然かも知れませんが、雑賀→斎藤の分流があったのかもしれません。