「鈎」と書いて「まがり」勾氏から?「鈎の陣」

いずれにしろ本人が「出頭」したとしても写真付き身分証明書の提示というルールはつまるところお役所の責任放棄なのかも知れませんね(昨日ブログ)。

要は「この(写真提示という)関門を設けるなどの対処をしているので(完璧です!)以降の不都合の発生については容赦してもらう」の一つの段取りだと思うのです。

 

考えてみれば、写真画像の提示と提示者本人の顔かたちの判別においての確実性とはどんなものなのでしょうね。

人の判断力などもそれぞれですし、車の免許証の更新期間の5年というインターバルの中、老け込んだりあるいは病気をしてかなり容貌が変わることもあるはずです。

 

これまでもその「確認の場」には居合わせていますが、やはり「形式的役所仕事」を思わずにはいられませんね。

顔かたちの違うと思われる画像の提示に際し、何等のチェックを返している様子をまた見たことがありません。

父親のそういったシチュエーションがありましたが、免許証の顔と実物は相当変わっていましたし。

「そのハゲたところはどうなってる」「妙に髪が薄いが」「色黒で頬がこけたが」などなど、だいたいそんな失礼すぎる指摘を役場の職員が投げかけられるワケがありませんね。

 

身分証(印鑑証明)を出すために身分証を新たに作るなんて(昨日)顔写真確認強要の事務仕事に疑問が残って二日連続のボヤキとなりました。

指紋認証や虹彩認証等の機械的判定のシステムなら大いに納得できますがね。

 

さて、先般近江を走っていて地名表示の「鈎」を見かけ「この字何と読む・・・」と思考が悶絶しました。「まがり」でしたね。

曲がりなりにも日本史というものを齧っていてこの字がスンナリ出てこなかったことに恥じいりました。

 

応仁文明の乱直後に室町幕府9代将軍足利義尚が近江守護の六角高頼を討伐するために直々に近江に出張った「長享・延徳の乱」にて将軍の陣を「鈎の陣」と呼んでいたことを思い出しました。

 

将軍継承の件で日本全国騒乱状態(応仁文明の乱)に陥れたその一方の主人公である足利義尚時代<長享>はまさに幕府権威の失墜、いわゆる「下剋上」という空気を流行らせてしまったのですが、関東でのその時代の騒乱「長享の乱」と区別するため近江鈎の陣を「長享・延徳の乱」(やはり「長享の乱」ですが)と明記するようです。

 

「まがり」と言えば真っ先に昨日の「河曲」(かまがり)の如くの河川地形からの発祥を考えますが、この「鈎」に関しては説として「それ以外」のものがあります。

「鈎」はモノを引っかけて得物とする釣り針状の道具ですから形状としては曲がっているものをイメージするのは間違ってはいません。実際こちらには「葉山川」という川がくねくねと流れてはいます。

 

ところがこちらの「鈎」は「勾配」の「勾」(こちらも「まがり」読み)が元であるとの説が栗東歴史民俗博物館にありました。

古来より氏名に「勾氏」記述の文書があるそうです(天武天皇十四年685に近江国司と「宮の大夫 勾連渚」の件)。

 

近江守護の六角高頼ですが、将軍自らの出馬となって形勢不利とみて観音寺城を捨てて甲賀郡に逃亡します。

その後は再び観音寺城に返り咲いていますがこの件、「当家のならいの如く」の前例となったようです。

孫の六角義賢(承禎)が信長に攻められて同様に観音寺城から甲賀に逃亡しています。祖父は2度も成功していました。

しかし義賢(承禎)の場合、「次は」ありませんでしたね。

 

六角高頼の場合は幸運が続いたということが効いています。

特に陣中の将軍足利義尚が病没してしまい六角討伐の大義が有耶無耶になったということです。

 

足利義尚は相当酒癖が悪かったようで死因はその辺りのところが推測されていますが、当初の持久戦により有り余る時間に酒宴を重ねた結果なのかも知れません。25才の死は唐突でした。

亡くなる前年に「義煕」と改名したのは縁起担ぎでしょう。

母親の日野富子が病床の息子の見舞いに来ています。

 

石碑の近くにはこの陣中で和歌など嗜んでいたことが分かります。リゾート感覚の陣中だったのかも知れません。

石碑の裏の土手に上がれば舟遊びができそうなロケーションでもありますが・・・。

こちらの碑は「上鈎東」交差点から10メートルほどの場所にあります

 

「将軍の出陣」となるとそれはそれはスゴイ動員になることは想像できます。

国立国会図書館の

「長享元年 九月十二日常徳院殿樣江州御動座當時左陣衆着到」(橋本博編)をペーストさせていただきました。

 

お歴々勢ぞろいの図で興味津々ですが

「勝田兵庫・・」に目が留まりました。