他者評価(昨日ブログ)というものを気にしつつも、ホントのところは形振り構わずテキトーに生きてきたというのが私でしたが、このように寺に住まうというご縁を得て、しきりに思うところといえばただただ「一人ではない」ということです。
この語はよくお説教にあるような「たくさんのご縁によって助けられ育くまれ」風のモノではなく、正真に孤独にいる時などに思うところで、これはまさにどちらの皆さんも同様のことなのでしょうが私は特にそれを意識して日々を送っています。
勿論人との関わり、社会の中でもそれを感じ取ることはできますが、特に山の中を1人で歩いている時などはその関係を現にします。
それは一人で居ながらの漫才の掛け合いのようで、しばしば爆笑、事物を一處に楽しむが如くです。
その人は「私のことなら何でも」知っていて鷹揚寛大で「恕」の如し、指摘はまさに適格です。それは「如来さん」ですね。
要は漫才のコンビでいえば、私がボケまくって相方の如来さんがつっこむというカタチ。
如来さんは私の煩悩の積重ねとボヤキの数々に対して一つ一つツッコミを入れてくれます。
そのコンビは私の今現在から未来にかけて永遠に続くと思われます。楽しい関係は「如来」改め「如楽」、極楽の如し。
名実ともに「苦楽をともにする」のは「阿弥陀仏」で色々な難題テーマも漫才の掛け合いの如くで決を得て対することができるというものです。
本日はあたかもサイケな、下手をすれば「薬物中毒?」をも想起することを記しましたがこのスタンスこそが今おすすめというか流行りつつある「念仏メディテーション」を効果的に実践できる思考方法だと思います。
それにより自分自身を俯瞰することができるのです。
ということで私はどちらの宗教施設それが神社であっても「南無阿弥陀仏」一本やりです。最近特に各神社は「参拝方法」を掲示することが多くなりましたが、そんな御親切もお構いいらず、「一念」して終了です。
何かし御利益についてはまったく興味なし。
さて、和田山城のある和田山の遠景画像は昨日ブログに記しましたがその逆方向からの画像が上記最後の画像。観音寺城の繖山が見えます。
和田山の西端にある禅宗寺院の長勝寺の境内に立てば能登川の街並み、その向こうには琵琶湖越えの比叡山北側の山並みを望むことができます(場所はこちら)。まだ私が足を向けた事のない町で興味津々です(上記画像最後から2つめ)。
その長勝寺に上がる階段中段にて古い宝塔にお待ちうけいただきました。格狭間とその中の三茎蓮華のいでたちに古風を思わせます。
案内板の通り嘉暦1326~29という鎌倉末期の年号を石塔の裏まで廻って観察しましたが摩滅により判読不可能でした。
石材の質の具合と相輪の欠落が見えますので複数石塔のパーツ重ねが推せますが、前述の格狭間と円柱形の胴部の工作、特に鳥居の肉彫りについては私にとって初見で一応の感動を得ました。
境内の宝篋印塔は江戸期のものの様、詳細不明です。
①②の画像は何気ない街角での石仏との出会い、これも近江特有の景色。ただしいつも記していますが石仏に前掛けは不要と思いますが・・・すべて「南無阿弥陀仏」。
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