山の向うに行ってしまった  掛川広楽寺址東福田

司法の力というものを期待しましょう。

あの7か国入国禁止の大統領令は合衆国民意を2分してしまったような感がありますがこのほどその暴挙とも思える恣意的処断に対して連邦地裁は大統領令を一時停止するという決定を出しましたね。これで入国はできるようになったようですが、この先相当揉めそうです。

 

私が思ったのは政治家の暴挙を監視するのはやはり「憲法」しかないな・・・と。

それだけに政治家はやたらと「憲法」をいじりたがるということがわかります。

アレを見ていよいよ大切にしたい気持ちが沸き起こりました。

 

そして僕らの愛するハリウッド映画のヒーロー「シュワちゃん」とあの「悪役」とのネット上の問答がありましたが、まるでオトナと子供のよう。

勧善懲悪のストーリーだったら仕舞にはやっつけられてしまうのですが・・・。まぁそれも歴史の中でいつも見ています。

 

アメリカには僕らが憧れた「自由の国」を取り戻してほしいものです。シュワちゃんが大統領になったとすればかなり楽しいアメリカがあったでしょう。・・・彼は映画の中と同じように保守的ですが(共和党です)・・・

以前は私も真顔で大統領選出馬を期待していた時がありました。

 

まだまだあの国から目が離せないですね。

ひょっとして「弾劾に持ち込まれて副大統領が昇格」などということもあるかも。

意地を張り通して他の意見を聞かないところはまるで自らの墓穴を深く深く掘っているようにも見えますね。

 

 昨日はこの地方の言葉の意味合いの妙「ツレ」に関して記しました。そして「よく使われるな・・・」と思う他者を皮肉る言葉に「欲が深い」がありますね。他所での生活が長かったせいかその語の各所での連発はかなりのインパクトがあって当初は「そんなこと言っていいのかよ」とかなりの違和感がありましたが、今では慣れっこになりました。そしてその「欲」などへの人の心の深層については坊さんの指摘以外はそうは耳にするものではないからです。

 

その意は世間様での使用と同様ですが、どうしてもこの地域の皆さんはそれを頻発しているよう感じます。

どのような場面で使用するかといえばそれぞれですが、まずはどなたかが本業ではない何かを積極的に「自然の果実」を「採取獲得」するために活動し挙句「失敗した時」ですね。

 

まぁ「ほどほどに自重しなさい」の警告を含みますが、これはそのために命を落としてしまった悲惨の場面であっても往々にして人は其の言葉でもって因果を語りたがります。

まあ昨日記したのコンビニ強盗の件もそうですが、過度に歪んだ強欲の出現というものは心の不制御を惹起しますからその語の使用はまんざら間違ってはいませんが・・・。

 

しかし自分がヘマをやらかして痛い思いをしているときに「住職は欲が深いから」などと言われていたのが分かったら相当落ち込むことになるでしょうね。

ということでほとんど「悪口」に近い使用に思えます。

にもかかわらずこの地域の人はやたらと使うのですね、面白可笑しく・・・

 

 先般檀家さんから、「しかし、こりゃ参った」という話を聞きました。

某方が何かの採取中に不慮の事故で命を落とした件についてある店の中で店主と話が盛り上がったそう。

つい調子に乗って「〇〇某は欲が深かったからなぁ」と言っちゃったところ周囲が一瞬で凍り付いたとのこと。

その後ろにたまたまその亡くなった方の親族が立っていたのだとのオチ。

爆笑しましたが、やっぱりこの地であってもその語は使わないことですね。少なくとも私の心の暗さを棚の上にして。

 

さて標記掛川の広楽寺の元あった場所について。

拙寺の言い伝えでいえば広楽寺は拙寺初代今井権七こと釋浄了の叔父の祐寿が建てた寺です。

こちらでも記していますが江州武佐の広済寺の「広」と大澤寺の前身で高天神戦で焼けた本楽寺の「楽」をとって「広楽寺」と銘々したとの伝承があります。

よってどちらかのサイトにありました広楽寺の由緒についての記述で天台宗の「広楽寺」に入って改宗したとありますが、それは私どもの言い伝えと違います。天台宗の「本楽寺」を改宗して菊川段平尾に「本楽寺」を建立したのち、その寺を浄了に任せて、祐寿が広楽寺を新たに建立したのですね。

 

そして浄了は徳川方、祐寿は武田方と袂を分かつことになったのでしたが結果的に武田の遠州退去が早く、広楽寺も徳川の元で継続することができたのでした。

 

聞くところによれば武田水軍が釘ケ浦(駿河湾)を捨てて内陸部に後退したという経緯は広楽寺が武田方の兵糧基地になっていたからといいますね。

よって当時から「広楽寺は山の向うに行ってしまったと人々は語りあった」と。意外ですがそのあとに今の明照寺が静波に建ったのだと聞きます。

 

ということで広楽寺址の推定地はこちら

「東福田」という地名となります。

この地名も地元ではあたりまえですが他所の人には難読です。

「福田」といえば通常は「フクダ」、真宗的に言えば「フクデン」のイメージ(司馬遼太郎)、同じ遠州の磐田市の福田は「フクデ」、そしてこちらの「東福田」は「ヒガシフンダ」です。

凄い訛りのような気がしますがやはりいかにも浄土を連想する地名に感じます。

付近には坂口谷川が流れ、小山城と相良城の中間地点、武田勢力内の支援基地として絶妙な立地です。この場所は武田水軍のアジトだったはずなのですが、今やその辺りのお話を伝える人はいませんね。尚画像①の看板にはそういった記述はありません。

 

ちなみに掛川広楽寺の山号は「福田山」です。

 

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コメント: 4
  • #1

    河東村出身者 (日曜日, 05 2月 2017 06:36)

    武田の水軍は嶽南記などに時々出ていて、気にかかっていたのですが、基地の一つがここにあったのですね。ここも当時はもう少し海岸線が内陸側だったのでしょうか。

    東福田は全然よめませんね。

  • #2

    今井一光 (日曜日, 05 2月 2017 13:06)

    ありがとうございます。
    「嶽南記」、河東村様のブログで勉強させていただきます。

    やはりこの辺りも当然に海岸線はもっと内陸にあったと思います。

  • #3

    河東村出身者 (木曜日, 09 2月 2017 05:02)

    浜松図書館の年表の天正4年に相良 船戦の記述がありましたのでご参考まで。

    https://www.lib-city-hamamatsu.jp/common/pdf/k-ieyasu.pdf

  • #4

    今井一光 (木曜日, 09 2月 2017 09:05)

    ありがとうございます。
    浜松市関係の発する「まとめ」資料はわかりやすく見やすいですね。

    私も数年に一度くらいですが浜松城をぶらつく際に市の駐車場に車を停めて
    帰りに役所の史蹟考古関係の部署に立ち寄ります。
    おもしろそうでお手頃の書籍がカウンターに並んでいますがそれを購入して
    駐車券にハンコを押してもらっています。
    こういうわかりやすいまとまった資料はどしどし引用すべきですね。