今我が家はピンチです。
数日前メインの冷蔵庫が「突然死」しました。
慌てて冷蔵庫内の整理をしているところに今度は給湯器が絶不調に陥りました。
お湯が出たり出なかったり、その症状を業者さんに知らせると「いつ絶命するかわからない」とのこと。
今のところ風呂の沸かしに関しては問題はありませんが、最悪の場合、以前味わった嫌な思い出が浮かんできます。
風呂が使用不能になった際、「子生まれ温泉」に行くのが面倒ということでお湯を沸かして冬の行水を挙行しましたが、その時の無茶苦茶寒かったことを、です。
今度はしっかり温泉に行くにしろ取付け工事で「3日くらいかかる」とのことでしたから不便なことを覚悟していなくてはなりません。
約9万キロ走った軽自動車の車検更新期日も迫っている中とりあえずはその前2件の新規更新の経費の捻出です。
便利用品にはおカネがかかる事をあらためて思いましたが、今はどう工面するか思案のしどころです。
そんな中、ノー天気なお役人さんの天下りのニュースはまったくヤレヤレですね。
「文科省→早稲田大学」の転進ということですが、昔から一般人では絶対にできない、お役人のウルトラCの再燃です。
大学の方では「利益供与等は一切なかった」とはいうもののこの件、大学側に税金(補助金)を配分する側の文科省の退職OBを「ご招待」するもので、お相手はいわゆる「利益関係人」です。
オカシな話ではあります。
そもそもそういった再就職をあっせんする仕組みを文科省は設けていたそうですし、大学側に口裏合わせの想定問答集なども事前に用意していたとのこと。
これは「隠ぺい工作」というヤツで酷い悪質体質が露呈したということです。
上記再就職「ご招待」のシステムは要は「口利きと顔つなぎ」以外何物でもないことくらい私にでもわかります。
そしてその内実は「お給料と退職金」のお楽しみ(供与)ですね。
庶民は60歳定年でプラプラしながら「お金ないねぇ」の如く苦笑しているなか、お役人さまには輝かしい再就職が待ち受けているなんぞ「不公平」以外を感じません。
なによりそれって「違法行為」ですからね。
政権お歴々のみなさんは「初めて耳にした」ようなことを仰っていましたが、それも信じられません。「ヌケヌケ」とですね。
私どもでさえ「絶対に根絶」されているワケがないものと思っていたことですから。
だから「やっぱりね」です。
それにしても関係者への懲戒だ訓告だの言っていましたが例えば「1/10の減給」など、きっとご当人からは「へでもない」ところでしょう。
「バレたら責任」というのはいいのですが、無茶苦茶甘いお沙汰のようで。
天下りしたのがバレたあの人は辞表を提出したと報じられていましたが「これってやはり退職金も出ているの?」と下衆の勘ぐりも。
さて、時折戦国から江戸期にかけての過酷な切支丹への扱いについて記していますが(尾張栄國寺)、本日はスコセッシ監督の映画「沈黙」が封切となりますね。
ストーリーは島原乱直後(寛永十四~十五年1637~38)の長崎ですが、長崎での切支丹弾圧といえば「二十六聖人」処刑の件があります。
上記「沈黙」を記したブログでも記しましたがこれは為政者(秀吉)トップの処断で行われた初めての例でした。
その処刑はかなり酷いやり方で欧州カトリック界ではその信者たち26人を「殉教者」感覚として扱い、当初より尊敬の念が抱かれていたようです。日本の幕末頃にローマ教皇によってあらためて「聖人」として指定されているとのこと。
26名(全員男性)は畿内にて捕縛されたクリスチャンで、うち二人は途中彼らの世話を買って出たもののよう。
よってはじめは24名ですね。
うちわけはスペイン人4名、ポルトガル人1名、メキシコ人1名の修道士、司祭の他の20人が日本人。
彼らは秀吉の命で京都奉行の石田三成が検挙し、長崎にて処刑されることが決まります。
惨いのは京都堀川通り「一条戻り橋」にて左耳一部を切り落とされて、市中を引き回し、徒歩にて長崎へ向かったといこと。
おそらく処刑の際は腰巻様の布切れ一つといいますので、裸同然の姿で1597年の正月すぎにその行列は見せしめを兼ねて長崎に向かったのでしょう。生きながらの責め苦です。
長崎の磔刑場には現在「日本二十六聖人記念館」なる博物館が建てられているそうですが、その博物館と長崎の大浦天主堂の二つの教会のほか全国の24のカトリック教会にその26聖人の遺骨と遺品が分けられて奉られています。
その一つが牧之原市のお隣の吉田町片岡にあります(場所はここ)。
「日本の26聖人」の件は欧州では結構「知る人ぞ知る」的な事案だったようですが、日本国内では「今一つ」ですね。
ましてその殉教者教会がここ遠州は吉田町片岡にあることなどはなかなか知れ渡っていません。
教会の門柱にかかる胴のプレートに目を凝らしてやっとそれが分かるというレベルです。
①マリア様にも私は「南無阿弥陀仏」。阿弥陀様と一緒であの姿には「慈愛」を感じます。
以下画像は江戸も終わった慶応四年、太政官発で掲げられた高札。「つい最近」まで邪宗門扱いだった感ありますが、今や皇室であっても「ICU(国際基督教大学)」に行っちゃう時代になりました。
今も概略「外に対しては強く、内に対しては甘く」・・・そういう世の中に感じます・・・。
その意味では政治に関わる者は天皇を利用するのではなく見倣うべきですね。
この感覚こそ明治初期、太政官時代の如く。
平成天皇の苦悩が伝わってくるよう感じるのは私だけ?
そしてここも刑場としてもお馴染み、堀川通一条戻り橋(こちらも)。
京都特派員(愚息)の生活圏。歩いて2分。
この先が御所、遠くに見える山は東山。
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