「高齢者の定義75歳以上」との記事が。
その数字を見て、だいたいそのようなものだろうと思いましたが意外やこれまではその定義が65歳以上だったそうです。
今や65歳など「あっという間」です。
私など「20歳」などつい「この間」という感じがするくらいですから。
この記事を見て、いよいよ日本には、長命を享受する人が増えたということが感じられ、今後余生をどう生きるかというテーマの創造を勧められたようでもあります。
この高齢者たる年齢というもの、バッサリと10年もの目盛りを変更することの意義はやはり大きいですね。
10年余分に人生をいただいたような気がします。
そうなのです、この意義は社会の共通認識が広がらなくてはなりませんね。
私たちの意識としてその「75」という数字に至るまでは社会に何らかの形で積極的に「関わっていこう」という姿勢を持たなくてはなりません。
企業はその意思に応えて今の「60歳定年」を見なおすなど受け入れ側としてのスタンスも変えていかなくてはならないということです。
もはや「若い者に代われ」(ポスト)ではなく「若い者」たちが増えない中、「やれるところまでやる」ですね。その気持ちだけは持って、あとのことは「おまかせ」ということで。
2000年代のこれまで、「65歳が高齢者」と言われていたのではありますが、戦国期ともなればやはりそれは「50歳代」ということが考えられるところでしょう。
秀吉は61歳ですからやはりドラマに描かれているが如く「老害のジジイ」ということで。
まぁ数字で物事を決めつけることは実際の人それぞれがありますので一概に決めつける事はできませんが。
今回その基準として変更された70代などといったら今風に言えば「後期高齢者」ということでしょうか。
こういった数字を見ているといかに御開祖親鸞聖人のご長寿と頭ハッキリ(平安・鎌倉期90歳)については脱帽させられるばかりです。
ちなみに拙寺三代目の今井祐伝の母、勒さん(釋尼妙意)は100歳を超えていました。
戦国武将のご長寿はやはり難しいでしょうね。
いざ戦となれば陣中の環境とコンディションは劣悪でしょうし、命に直接のかかわりがなくともケガや傷の蓄積も半端ではなかったと思いますね。よって戦国期の戦働きを通しての70代は奇特な部類です。
先般は奥山半僧坊にて近藤家の墓域についてそのお参りが叶わなかったことを記しましたが、遠州近藤氏はその系統を分家文脈として多く増やした家です。
各所に近藤家の墓を見つけることができます。
井伊谷三人衆の一人、近藤康用(やすもち)も七十代の人生を駆け抜けています(「近藤」と通字の「用」についてはかつてブログで記しています)。
今川→松平の遠州忩劇時代を通じて槍一本で戦場の野山を走り回って生き抜いた人でした。
その父親の近藤忠用はそのまた父の近藤満用が松平清康に従軍して得た宇利城(またはこちら)にありましたが忠用の代になって松平清康が没したタイミングで今川義元の傘下に。
そこを康用になって義元が死した桶狭間以降、家康の進出によって元の鞘に収まったという経緯がありました。
こちらも龍潭寺の墓域です。
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