昨日のテレビ小僧(わたくしです・・・)のお楽しみは「探検バクモン」という番組の「奇想天外!築地本願寺」でした。
私は1度だけあちらで催された葬儀に脇僧で出席したことがありますが、裏側深くを見たことがありませんでしたので興味津々。
寺は築地の市場の商店街が旧参道とし歴とした門前町を形成。
やはりこちらは「お西」のお寺で、私ども大谷派(お東)と宗旨はまったく同じです。言葉の端々にその雰囲気がうかがえます。御開祖親鸞さんの教えは共通ですから。
冒頭、坊さんに髪の毛があることに「生きとし生けるもの みんなおんなじ」風の事を仰っていました。
「見た目じゃない 生きる命に 上下なし」・・・基本です。
途中「なんでも受け入れる」という言葉でパイプオルガンの寄進について触れていました。
見逃した方は再放送が近日中に夜中の12時過ぎにあると思いますのでそちらを。
さて、2日前のブログで「小野親子」(小野政直とその子の政次~別名小野道好)についてどういう描き方がされるか興味があり、とやかくと記しました(→ブログ)。私が知る歴史上の「腹黒のワル」の第一人者だったからです。
ところが昨日「withnews」に直虎ドラマの記事があってそれはそれは驚かされました。
なんと「陰謀仕組んだ側も被害者設定?」ですからね。その記事のタイトルを見ただけでピンときてしまいしました。
ブログでは小野は小野でも玄蕃守の墓を記していましたがその人は政次の弟の小野朝直のことで実のところ彼は桶狭間にて井伊直盛とともに討死していますのでその人については悪評はありませんでした。むしろ政次の弟であっても家康からの処遇は悪くはありませんでした。
問題はその兄貴の政次なのです。
「悪の政次」の件、詳細は各お調べいただくとして、以前から井伊家を陥れた大悪党と知られたこの人の描き方ですが今回のドラマでは「井伊直親と一緒に今川家の陰謀に陥れられた」という同じ被害者の設定だといいます。
そうだとしたら私的にいえばかなりの肩透かし。どうあの悪党というか悪役を演じるかが興味の一つでしたからですね。
井伊直虎に直親そして小野政次を同年代の幼少のころからの仲睦まじさを描きすぎたか、政次の配役に気遣って「イイ者」に収めて史実を曲げたのでしょうか。
そうなると、ここでの大悪党は今川氏真一人ということで、彼にすべてを押し付けようという流れになりますね。
大河ドラマの脚本のポイントは特色を出すための方向性として「史実として一般に認知されていなくても『そうでなかった』という証拠がなければヨシ」とする傾向がありますからね。
一番に思いつくそれは「本能寺で信長が西部警察張りに鉄砲を撃ちまくった」ということです。
脚本家は信長公記には「鉄砲は撃っていないとは記されていない」と主張していたといいます。
小野政次は「氏真の命を受け」て井伊谷を掌握し次郎法師(直虎)らを排除したところを家康の命を受けた井伊谷三人衆(鈴木重時、菅沼忠久、近藤康用)に攻め込まれて敗退、捕縛され斬首されています。何といっても敗戦の責をとうものでなく刑死(主君を陥れた犯罪人)という形を取られていますから。
それもこれも全部今川氏真のせい、氏真に騙されていたという設定にするのでしょうか。
井伊家を奈落の底に陥れたのは小野親子代々の「讒言」というのが定説である中、「ちょっと・・そんなんでいいの?」という疑問が残ります。
情報量の少ない中、駿河御屋形の氏真に正確な判断ができたかを考えるとやはりそれもおかしな話です。実際はどう描かれるのでしょうか。
墓は毎度お馴染みの龍潭寺墓域。
中野家は井伊家分流、井伊直盛が桶狭間出陣前の遺言、息子直親の後見を指名した中野直由がいます。画像③④+⑦。
この指名は小野政次への当てつけで彼へのストッパー役を直盛が「もしもの時」用に選んでいたのだといいます。
結局は直盛は討死してしまい遺言通り中野直由が井伊直親の後見人として井伊家存続のために存在感をあらわにすることになります。
井伊直親が亡くなって井伊家の存続を図りますが彼も飯尾連龍(またはこちら)の曳馬城の合戦で新野左馬助(またはこちら)と一所に討死し、この二大後見人の不在によって次郎法師が直虎として井伊家のピンチヒッターとして登場することになります。
そして今村家(画像②)。
小野政直の「讒言」によって父井伊直満が今川義元に殺された幼き直親(亀之丞)は危険を察して信濃国伊那郡松源寺への逃避行となりますが、その際亀之丞を引率して守り抜いた裏方の井伊家功労者かつ彼の養育者が今村藤七正実です。
まったく話が飛びますがこの今村姓も駿遠に比較的多い名ですね。特に相良はダントツで50件以上あるようです。そして私の「今井」などはつい最近までは当家だけでした。
よって役場でも郵便局でも病院でも決まって呼び出しは「今村さ~ん」でした。
松下姓の出自を頭陀寺から井伊の関りと推測する中、この今村の存在も何かしらの流れを感じます。
そして⑤⑥+⑦奥山家墓域と⓼松下家墓域。
そして⑨桶狭間合戦戦没者墓塔。
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河東村出身者 (金曜日, 06 1月 2017 21:49)
井伊家伝記(http://senjp.com/iike-10/)では今村藤七郎は勝間田だそうですが、榛原・相良の今村さんも元々は勝間田だったのでしょうか?
なお、当たり前ですが、龍潭寺墓域には頭陀寺の松下家の墓はなく、あるのは親類の清景・清綱の家のはずです。
今井一光 (金曜日, 06 1月 2017 23:11)
ありがとうございます。
当地区の今村が勝間田氏流の確証はありません。
今村姓については相良波津に大沢、榛原は静波に多く見られますが
圧倒的に多いのが大江地区。
次の課題として大江の「今村家」を家紋から調べてみたいと思います。
臨済宗の平田寺さんの墓域をうろつけばイイだけですね。
ただし勝間田の家紋というものが特定されていなかったような。
かつて教育委員会のパンフで記したものには戸塚氏の家紋が代用されていたようです。
河東村出身者 (土曜日, 07 1月 2017 04:20)
勝間田氏は理論的には横地氏と同じく舞鶴紋や亀甲紋のはずですが、現実的には石屋さんの腕とかその他の事情でほかになってしまったりするのではないかと思っています。
(どれくらい当たっているかは不明/ この戸塚さん(→ http://tozuka.boo-log.com/e151339.html )もなぜか丸に隅立て四ツ目になっていますね)
今井一光 (土曜日, 07 1月 2017 11:12)
ありがとうございます。
勝間田系戸塚氏というと旧榛原町仁田に住まわれているようですが
上下鶴菱紋だったかと思います。違っていたらごめんなさい。
悲しいかな滅亡敗者の資料は少なすぎですね。