大晦日当日。
どうなることやら・・・何事も万事スンナリと事が運んでくれればいいのですが・・・
昨日午後からは今日の準備のために境内に集まりました。
婦人部女性陣が芋を洗うなど焼き芋やトン汁の仕込みに。
途中SBSラジオ「らぶらじ」の「キャスタードライバー」のお姉さん2名がやってきて除夕の鐘のインタビュー。
一同逃げ回って案外シャイな部分を見せつけていましたが、堅い話でない部分は殆どオヤジ的突っ込みに大盛り上がり。
勿論女性陣からは「白い目」であったことは間違いなかったでしょう。
20代の女性が男の中に飛び込んで冗談とはいえ、よもやセクハラまがい?と思わせるような言葉が飛び交う場(お寺の境内です)
に居るのは少々気の毒かとも思いましたが、どっこい彼女らはさすが「プロフェッショナル」、慣れたものです。
サラッと受け流して逆にツッコミで返していました。
相手をどうにかその「決まった時間」に盛り上げて会話を作らなくてはなりませんので、生放送のラジオもなかなか「気が気ではないハラハラ」感がありました。
二人の女性がシャカシャカと動いて準備の終わった境内を大盛り上がりにしてくれましたが、ラジオトークも凄い宣伝効果がありそう。
忙しそうに次のロケ場所に向かっていました。
「ラジオ」のアナウンサーは画像が伴わないため、「トーク」の連続と「キレ」の良さが勝負ということがよ~くわかりました。まぁ男ではあの雰囲気は作れませんね。凄かったです。
さて、次の大河ドラマへの興味が移る頃ですが先般報道されていた「直虎はオトコだった」説について小和田先生がブログにて述べられていました。
「よしもと新喜劇」ではその「女と思いきや男だった」のギャグは大いに盛り上がるところですが、その直虎の件は、笑いのネタの「おかま」や「おねぇ」というレベルでは収まらない歴史的齟齬が発生します。要は歴史を少々齧っている私のような者から専門の学者まで看過できぬ説ですね。
先生のブログを読んでいただければと思いますが、私も先生の意見の通りに考えます。
次郎法師の命名もそうですが、惣領を「男」と標榜するための近親周囲了解がベースにあることですし、後世固定的観念から「そもそも女だった」ことを黙殺していることも考えられます。
こういう場合は書面の他の部分から真偽に関わる箇所を探してその文書そのものの信頼性について検討したり他の文献の登場を待ちますが、今のところは「オトコだった」の確証は無いに等しいのではないでしょうか。
まして「そうだった」などと言い出したら次のドラマはかなり興ざめになりますし・・・
小和田先生の新聞社からの問い合わせに対する回答は
1.同時代史料ではなく、聞き書きなので、江戸時代井伊氏の家臣の家にはそうした伝承があったといったことがわかるが、信憑性については低い。
2.仮に、関口氏経の子が井伊次郎を名乗ったとしても、今回紹介された史料では、井伊次郎=直虎という記述はない。
3.井伊氏の惣領の仮名(けみょう)は代々次郎で、だからこそ、龍潭寺の南渓和尚も、惣領直)の一人娘の出家に際し、次郎法師という名を与えた。次郎法師がいるのに、別の人間が次郎を名乗れるとは考えにくい。
でした。
先般ブログで高天神城近くの華厳院の古文書について記しました。井伊直勝による「笠原庄峰田郷堀内門田」の土地の寄進状でした。
この寄進状のみで「井伊」が高天神城界隈に居たというのは合点がいかない方もいらっしゃるのではないかと思いますが、実は私もこれまで当HPの高天神城関係年表では
★永正10(1513)年 これより以前
福島助左衛門尉助春 高天神城に入る
(大福寺文書)
から記していてそれ以前については私得意の「割愛」をしていました。何せそれは平安時代のことですからね。
ベースは私が高天神城世界に入るきっかけとなった「高天神城址を尋ねて」ですが、実はその高天神城の歴史の最初の部分
「高天神築城の由来」の冒頭にこうあります。
「1180、治承四年、源頼政は宇治にて、平清盛勢と戦い敗死した。時に頼政に従軍した渭伊隼人、正直孝は平家の探索を逃れて故国遠州に帰り、鶴翁山の山塞に隠棲した。」
ですね。
私は著者の藤田鶴南氏の引用文書を知りません。
よって「渭伊隼人、正直孝」と点で区切ったことは不明ですが一人の人間の「渭伊隼人正直孝」と考えるのが一般的ですね。「隼人正」は成瀬隼人正、昨日記した薄田隼人正の如く官位の一つです。
というと井伊直孝これまた同姓同名。
通字の「直」は勿論の事です。
高天神にほとんど一番最初に入っていたのは井伊氏だったということですが、これも藤原南家説に加えて近隣新野氏との関係の深さが推測できるというものです。
その辺りは「河東村出身者」さんのブログも参考にしてください。
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野村幸一 (土曜日, 31 12月 2016 08:32)
今年は本当にお世話になりました!ありがとうございます。除夕の鐘に参加して打ってみたいところですがなんやかやと忙しくお邪魔できないのが残念です。
また暖かくなってきたら家族を連れて墓参に伺いたいと思っております。良い年をお迎えください。
河東村出身者 (土曜日, 31 12月 2016)
今頃は除夕の鐘の真っ最中でしょうか。
大変お世話になりました。来年もよろしくお願いします。
今井一光 (土曜日, 31 12月 2016 18:30)
野村様河東様、こちらこそお世話になりました。
お二人の好学に負けないよう歴史世界を迷走できればと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。