ブログの継続が困難になったことに備えて息子に「頼んだよ」といえば「冗談じゃない」と返ってきたことは少し前に記しました。
それでは私の遺骨の分骨について、以前は「一つまみずつでも沖縄の読谷村と恩納村の海岸に撒いてくれ」と言って(実はこの件「面倒で却下」との回答を頂戴していました)いたのですが最近は相当気が変わってきました。
東シナ海一つまみ散骨、も捨てがたいので何かのついでに・・と希望は捨てていませんがこのごろは琵琶湖の気分が増幅。
今のうちにその手のことを考えるのも「あちら」へ行っての楽しみかと思います。
琵琶湖でもその周辺の山の中でもどこでも構いませんが湖北ののんびりとした風景と時間の流れの中がイイですね。
雰囲気の問題で人それぞれでしょうが「木之本」なる地名もなかなかイカします。
さて、昨日のブログは「布施氏」出自について記すつもりがかなり脱線してしまいました。
まず昨日はこちらの布施氏に関しての武将の名を南北諸士帳から「布施次郎左衛門」なる者をあげましたが実はまだ明記できます。
そちらには
「布施城」とあって
①布施次郎左衛門②布施小次郎③布施小左衛門
と3名の名があります。
こちらは「江北六郡郷士名簿」(馬場秋星氏)なるものからです。
この便利な纏めの書は「江州佐々木南北諸士帳」に加えて「諸国廃城考」、彦根市大洞弁財天の「近江国郡司郷士法号覚」「近江温故録」「近江伊香郡志」「近江東浅井郡志」「近江坂田郡志」「近江愛知郡志」「高島郡志」「日本城郭大系」等々から抽出したものとありました。
まぁこの名簿も参考になるためいずれ南北諸士帳の最後に記したいと思います。
そして布施城にいたはずの布施は今どこに?ということになりましょう。これまでは例外的に鯰江城の件はありましたが、まずは時間の経過は無常、一族離散して有耶無耶というところなのですが、これは東近江市布施城の「布施」ではその通りでした。
ところがこちら木之元から昨日記した高月町西物部の集落には両手では足りないくらいの「布施さん」が点在しています。
たまたま例の住所掲示板は見えませんでしたが・・・
そこで昨日の赤尾の西徳寺について追記させていただきますが、あの「赤尾」には「江北六郡郷士名簿」(馬場秋星氏)によると~この「赤尾」については「江州佐々木南北諸士帳」への記載が無いのですが~
「赤尾城」
①赤尾筑後守②赤尾与四郎③赤尾美作守⓸赤尾駿河守⑤赤尾新兵衛の5名の名が・・・
赤尾といえば「近江国湖北四家」のうちの一家で磯野家、雨森家、井口家と並んで戦国期当地で活躍した武門の雄ですね。
また浅井氏時代ではその勇猛さから「海赤雨の三将」と囃されています。「海赤雨」とは「海北善右門綱親、雨森弥兵衛清貞
赤尾孫三郎清綱」の三名のこと。
この赤尾を名のる家も布施ほどではありませんが高月町に点在しています。他の家も同様でまったく見当たらないということはありませんね。
赤尾はどちらかといえば大津方面に多く残っているようですが。
さて赤尾の真宗大谷派寺院西徳寺にはその本堂と七重塔の圧巻に感動させられたことは記しましたが今一つの驚きがありました。
これは他のサイトにも記されていましたのでこちらで紹介しても問題なしとみて記しますが、何と住職の姓は「磯野さん」なのです。
上記「近江国湖北四家」の一家の流れであることは言うまでもないところでしょう。
ちなみに場所を地図を示せばこの辺りですが赤尾の南側、琵琶湖を囲む賤ケ岳からの台地の裾にあるのが「磯野」となります。昨日の最後の画像で赤尾集落の遠景を記しましたがその撮影地点が「圃場整備磯野工区石碑」上記画像②③④です。
その碑についても近江の村落にはつきものですが、開墾によって掘り出された石仏たちが集められているところもよく見かける光景です。その最後の画像が「磯野」となりますね。要はこの碑のある整備地は「磯野」の管理ということでしょう。
こちら磯野の背後の山に磯野城があって恒例「南北諸士帳」にはこう記されています。
磯野城主 住 佐々木浅井随兵 磯野源三郎
磯野 住 伊予守元摂州 磯野伊代守通信
磯野 住 磯野右(ママ)右衛門太輔
磯野 佐々木随兵磯野末 宮沢右衛門
また加えて「江北六郡郷士名簿」には
伊香郡唐川 磯野右衛門太夫
磯野城
磯野刑部員友 磯野備中守員安 磯野肥後守忠員 磯野右衛門磯野源三郎 磯野源十郎 磯野伊代守 磯野平八郎員宗 磯野帯刀 磯野丹波守とありました。
磯野姓も「布施」ほどではありませんがこの地区に点在します。
磯野と赤尾は隣どうしではありますが、佐々木→浅井への配下となるタイミングが違って一時は磯野右衛門は小谷大嶽城を急襲するなど浅井方「海赤雨の三将」と戦っています。
こちら近江の集落は周囲が田畑に囲まれて点在し、他所の人が訪れてもとてもわかりやすい場所です。浮き上がって目立ちます。特に私は。
また戦国期あたりの風景を今も残している地といえましょう。そこのところが何ともイイのです。
①は昨日の追記、赤尾西徳寺本堂余間の図。門徒寺ではお馴染みの九字と十字の名号のお軸が掛かっています。
⑤⑥は木之元の駅。⑦が昨日の「あかおばし」から見た余呉川上流と賤ケ岳の図。
⓼⑨⑩が賤ケ岳トンネルを潜るの図。するともっともっと深く「湖北」を感じる場所に⑪⑫⑬。
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