昨日ブログにてお寺の存在は「フランチャイズチェーン」の如くなどといって暴言を吐いたことには少々反省。
何より経済活動ではありませんからね、宗教は。
まぁ少なからず偉大な看板・・・、これも語弊があるといけませんので付け加えますが、宗祖の数々の教えを背負っている責任という意味では、本社ならぬ本山より監督されている身ではあります。
そして仏教系宗旨別信者数の数字の大谷派の突出事案について記しましたが、私などは特に近江を歩いていて、大谷派系の檀信徒が「それほど少ない数値のはずがないのでは・・・」と思っていたのが彼の地、大谷派寺院の数を見て思うところ。
かつて一例として湖北、木之本と高月のお寺の宗旨についてざっと並べましたが、御覧いただければ一目瞭然ですね。
あちらだけ単純に比較して、全体でもそう少なくはないのでは・・・と思うのは当然ですね。
またしかし木之本町黒田の正覚寺の件をブログにて記しましたがこの地区のお寺はどちらも檀家数の減少により「兼務形態」が増えていると聞きます。人口の流出、減少の波がこの地にも及んでいることは全国的にみても同様でした。
そのような中で、大谷派寺院が集中してあるとなれば、相当内実は厳しそうに感じます。
大谷派寺院(真宗寺院は大抵がそう・・・)は個人道場からの発展形(先ほどの言い回しを使えば「支店へ」の「派遣店長」ではない)であり世襲を旨としますので、それらお寺の住職は兼務は兼務でも他の仕事を持つという形式に変わっているようです。
そのような場合、教職員あるいは公務員等の職が圧倒的に多くみられます。それは平日に通常職務に就き、土日に自坊の法要を勤修するというパターンですね。
やはりなかなか自分自身の時間をとることが難しいようです。
さて、相良在住布施氏の近江出自は殆ど確定的で、まずは布施山城のある布施町説を強引にブログで記しました。
しかし、そこでどうも腑に落ちないという点がその村落に真宗寺院が見られなかったことです。
益田にしろ野村にしろ拙寺に繋がりそうな家の推定出身地には必ずと言って真宗、それも大谷派のお寺が鎮座していましたので・・・。
そこで相良布施家の出自、近江でその2番目の候補にあげた推定地について。
そちらが伊香郡旧七郷村に編入された布施村(現高月町)と旧伊香具村に編入された北布施村(現木之本町)です。地域的に隣接しています。
この辺りは一言で「木之元地区」ということになりましょうがこの両「布施」は余呉湖から出た余呉川で隔てられています(下の画像)。
またその両布施村のうち高月町布施の方には「猶存寺」という真宗大谷派の寺、そしてまた木之本町北布施地区には村落としては「赤尾」という名称となりますがやはり真宗大谷派の西徳寺があります(場所はこちら)。
私は宗旨に関わらず多様な寺の本堂を拝見していますが、こちらの本堂には感激しましたね。
勿論重要文化財指定になっています。
北陸当たりでは珍しくないといわれそうですが、この姿は私が住まう東海地区にはありません。
当然に人とすれ違う事のない村落を歩いていてこのお寺に巡った時には「ええっ~?」と声が出てしまいました。
門を入ってスグに寺の縁起が記されていましたが「十五世紀中期に地元地侍が道場を開いたのにはじまる」の部分は真宗系寺院の発祥としてよくあるパターンを記しています。
さすがに近江ですね、拙寺初代が近江から遠州に流れ着いたのが十六世紀中期となりますので百年の発祥の差があります。
下の航空図等で確認いただければと思いますが、背後から西にかけて賤ケ岳山系に囲まれてれ南東部に開けた立地となっていて、防御性を加味していることがわかります。村の配置という点では典型的立地です。
ここで南北諸士帳の伊香郡をひもとけば「布施 住 佐々木浅井随兵 布施次郎左衛門」の名が見えました。
やはり他所から来た私には地元の皆さんから見れば「ピンとくる」ものがあるのか、「やはり」と思わせるシーンがありました。
カメラ片手にうろうろすればパトカーが飛んでくることはいつものことと驚きませんが、取ってつけたような偶然とは思えないあのパトロールは違和感を禁じ得ない場所ではあります。
職務質問はなく会釈しておしまいでした。プロのおめがねから「無害」と判断されたということですね。
こちらをブラついていて人さまとは会う機会はありませんでしたがどちらかでしっかりチェックは入っているのでしょう。
しっかりした地域防犯システムがあることも驚きではありました。
上の後ろから3つ目の画像は余呉川にかかる「あかおばし」から見た小谷山とその後ろに重なる伊吹山。
その次の画像2枚の黄〇が西徳寺。
青○が高月町東高田の真宗大谷派の立圓寺、背後には高月町西物部集落があって大谷派双林寺があります。
あの山の向こう側は琵琶湖になります。
本堂参拝もスンナリできて嬉しい出遭いがありました。拙寺の華美ともいえるゴチャゴチャ感はまったくなく、シンプルで初期真宗寺院の姿を真摯に伝えていました。
もたもう一つの感激は本堂背後右寄りの崖の法面に建つ層塔です。古いものでした。
この手の層塔を外観でのぱっと見はまず大抵は最近の製作というものが数多で、また大した意味を持たない周囲環境を意識するお飾り的、あるいは趣味的なものが圧倒的で、それがあまりにも普通の光景です。
それらはどちらでもお目にかかりますね。
しかしこちらの七重塔は何と言っても「弘安十年(1287)」という建造年号が光っていることです。
いずれにしろあの装飾度の高い層塔の製作は財施の大きさと裕福、余裕度が高いはずで、有力者の存在がうかがわれます。
あらためて物事は「外見にとらわれず詳細チェックは怠ってはいけない」ことを知らされました。
それではこちらの層塔の川勝政太郎氏の評価を。
西徳寺七重塔
基礎の四面は格狭間内に宝瓶三茎蓮を、初重軸部の四方は舟形光背式にほりくぼめて、四方仏の像容を刻出する。
各重屋根は力強い軒反りを示し、下端に垂木型を作り出す。
上部は屋根が破損し、相輪は上端を失っている。
基礎の一面の向かって右框に「弘安十年(1287)八月」の紀年銘がある。
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