昨日NHK「歴史秘話・・・」は「城郭考古学」でお馴染みの千田教授の登場。「真田丸はたくさんあった」の御説は面白かったですね。
それにしても教授は城郭考古学世界の「さかなクン」?とも錯覚するほどのノリでした。
夏の陣の際に真田信繁が第2第3の真田丸を構築したというものです。冬の陣で家康が陣取った天王寺の茶臼山に夏の陣には信繁が入ったことは知られていますね。いわばそちらも「真田丸」であることは確かです。その茶臼山は「前方後円墳の円墳上を改修した」(大塚)古墳であったことを記しましたが、そちらとは別に奈良より生駒経由で大坂城へ攻め込もうとする徳川勢を出し抜こうと大坂方が考えたのは点在する前方後円墳たちだったとの指摘。
実際に検証(空からの地形探査?)したとのことでしたが「ミサンザイ古墳」の頂部に削平の址や入り込んだ堀や階段状の通路痕も推測できたと。
まぁ圧倒的多数に対してゲリラ戦を行おうとしても拠点を分散して正攻法にあたれば殲滅させられることは予想がつきます。
散在する古墳を「砦」「塞」「丸」として活用したという話は戦国期は当然の中の当然の話で、予想はつくところですが、その痕跡を確かに認めたというところが画期的ですね。
ここで想ったのは、そういう場所は通常は絶対に足を踏み入れることはできません(宮内庁管理)ね。
調査検証のためにより門戸を開くべきと。
なお「ミソンザイ」なる古墳の名称は各地にあります。
仁徳天皇の呼称が「大鷦鷯天皇」(だいしょうりょう)でしたが
「鷦鷯」とは「ミソサザイ」でした。「陵=ミササギ」から古墳をそう呼ぶともいいますが、発祥は「鷦鷯」でしょう。
さて金剛輪寺の宣伝コピーの凄さは何と言ってもあの語、「血染めの・・・」ですね。秋の山は黄色もありますが、紅葉というくらいで赤っぽくはなりますがまさかそれを「血染め」の表現をするとはなかなかスゴイ。
しかしこの「血染め」表現についてはこの寺の歴史経緯がバックにあったようで、ともかくも寺院の意義としては専ら戦勝祈願祈祷所に特化する傾向があったと思います。
戦勝祈願といえばキレイですが、相手を殲滅してこその勝利しかありませんから、やはり「血」が流れることにつながります。
伝承的にも他にあるようですが、やはり「戦勝祈願」ということは自身の敗北死もありうることを示していますので覚悟としても「血」を意識せざるを得ない場所だったのかも知れません。
勿論今は、「血の如く鮮やかな紅色の発色」以外は意味しないでしょう。現代は相手も自分も「血を流す」ことなどはあってはならないのです。
画像は左右に一対の仁王の像を安置している「二天門」。
向かって右に増長天(下画像①)、左が持国天(同②)だそうです。
私は見ただけでわかるほどの手練れではありません。
百済寺にもデカイ草履がかかっていましたね。こちらも同様。
「金剛草履」というものが「二束(足)三文」の草履の語源にありますが、この寺の名称からとったものでしょうか?
話は変わりますが、子供の頃靴を新調してもらった時、喜ぶあまり家の中で靴を履いたまま外に出ようとすると母親から叱られたことがありませんか?
今、葬儀前の自宅出棺で頭数にもよりますが私は棺を「中で担ぐ人」「外で待つ人」とそのバトンタッチについて差配したりしますが、昔はそのような時、新品の草履を家の中で履いてそのまま棺を担いで外に運び出すという習慣がありました。
それを知っていた母親や祖母はその私の軽はずみを叱ったのでした。
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