昨日午前中は相良史跡研究会一同随伴で藤田先生に田沼相良を見ていただこうという企画でした。
冷たい朝ということは空気が澄んで景色がイイということです。
まずは9時に萩間川沿いの宿に皆さんと一緒にお迎えに行くことからでした。
お昼を会員が先生を囲んで一所することになっていましたが小澤会長の主な意向でそれまでの時間、何カ所か相良を見て回るという計画。
そのテーマが「田沼遺構」ということで相良城破却材流用を示唆する拙寺本堂とその床下の痕跡(ほぞ穴等)見学がそのコースに入っていました(日本城郭大系 静岡 相良城)。
まずは「一番景色のイイ場所」ということで「鉢形」(八形)と決定したようで、私も久しぶりにあの景色を期待しつつ先生を載せた車両を追いかけました。
そのかつて私がブログで記しましたように蕉園がいう「鉢形」が実は「小堤山」であったという私の持論は伏せて相良の史跡研究会御一同の見解でもある、当初大澤寺があり、後に相良城建設の候補地となった牧之原舌状台地先端の「鉢形山」です。
実は現在もその地名は残っていますのでむしろ小島蕉園の記述は「ちょっと端折りすぎでは・・・」とも思えますから。
ただしこの山の上まで津波から逃げたというのもおかしな話ではあります。
蕉園が地名を間違えて記したという可能性も残ります。
あと一つでも「小堤山と鉢形山」の関連を匂わす文書が出ればデカイ顔でそれを吹聴できるのですが・・・
旧相良町のまちうちから富士山を見る事はできません。
先日の小堤山の図(こちらのブログ「最下の③」)などもそうですが、ちょいと高い場所にあがればそれは可能です。
やはりお客さんが来たからには相良からの富士山は見ていただきたいですね。
この富士山ばかりは本当に気まぐれで、その日になってみなくてはわかりませんので、少々不安にはなりましたが、あがってみれば、その日はまずまず。
というか案外とイイ感じでその雄姿を見せてくれていました。
藤田先生は八王子在住ということですが、そちらからでもコンディション次第では富士山は見られるとのことでした。
私はこの地に来るといつも溜息が出てしまいます。
高天神城戦で寺が徳川方の陣となり、焼失。たまたま入っていた成瀬正義の妻の禄(釋尼妙意)さんのコネで寺領を相良大沢の鉢形に安堵されてこの地にあったと伝わっています。
拙寺が本楽寺から大澤寺へと名称変更したのはこの時でその大沢という地名を取ったものです。「大沢の寺」ですね。
その際は院号に「本楽」を残して「本楽院」としていたようですが、海岸沿いに降りてこの地域の駿河湾の名称「釘ケ浦」から「釘浦山」という山号に変えています。
拙寺の名称は山号も寺号もともに姓氏の呼びと同様に「地名」から来ています。
これはお寺の名称の付け方としては少ないパターンだと思います。宗旨や経典から命名する寺の名を多く見ますので。
もともとはこちらにあった寺を新町の開発(家康の鷹狩陣場)に伴って平地に「下りた」(その後現在の波津の地へ)歴史なのですが、今考えると少なくとも津波被害については頭を悩ます必要はなかったのですが・・・。何よりも景色は壮観で空気はうまい。
もっともこの場所に寺があったとしたら、檀家さんはかなり不便だったでしょうね。昼食を皆さんと一緒に戴いたあと、一番最初に御無礼させていただきました。会員の皆さん、盛り上がりがピークで解散の様子が伺えませんでしたので・・・
教育委員会から車を出して静岡駅まで先生をお送りしなくてはならないことは承知していましたので、「水を差す」ではありませんが、「そろそろ・・・」の合図を出すタイミングを計っていました。
②は相良城の石垣で本通り小山紙店隣の野村邸(永田さん)から出たもの。そのカタチからあるべき方向について力説される先生。
⑤は「鉢形」の名が残るポンプ施設の名称。⑥の「園村」に通じる道で古道塩の道と合流します。
拙寺過去帳には当時の檀家さんの名とそちらの出自が記されている箇所があります。ところが現在は園村の檀家さんはありません。
昨日、「海抜4.7m」とその奥に「もっと低い」場所があると記しましたがそれがこちら、中学校のグラウンドです。
1mは低くなっていることがわかります。
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