有名観光地の中央突破は早朝限定 清水寺石仏群

昨日は「今年の漢字」とやらが発表されていました。

毎年恒例になっている行事のようですが毎年「ふ~ん」といいながらニュースを聞き流していましたのでスグに忘れます。

その選出の根拠も「どんなもんだろう」的でよくわからない他愛のないイベント風。

今年もどうってことはない字が選ばれていました。あの字は3度目といいますから、「またそれ・・・?」との指摘もちらほら。

 

人それぞれの1年と各発想がある中、「今年はコレ」という決めつけはちょっといかにも「大衆迎合」の押し付けのような気がしまして・・・まぁ所詮はお遊びの類ということでOKかも。

ちなみに私だったら・・・「国」かな・・・それもネガティブイメージで。

「個」を蹂躙してでもその維持を目論む風潮ということで。

まぁいろいろです。

しかしその「今年の漢字」という語彙は商標登録が為されているとのことで、イベント発案者としては結構マジなのですね。

 

その毎年のイベント会場といえば清水寺(場所はここ)ですね。

海外からの観光客はじめ修学旅行の書生さんたちに超人気といえるお寺です。

数年前にお寺のバス旅行で大谷祖廟のお参りのあと、高台寺前から八坂の塔の寄り道をして三年坂から清水寺のバス駐車場集合という約束で散策を楽しみましたが(バスには先回りしてもらってそちらで待機)、バス乗車後、駐車場から出た五条坂から東大路通に出るまで30分~40分かかったことを思い出します。

 

何しろ時間を気にしていますと、車は「微動だにしない!!」の苛立ちが沸き起こります。あの時は平日でしたが土日ともなればガチでフリーズすること間違いないですからね。

そして洛中お決まりのイベントが周辺で行われる日があえば、「車で来てしまった」「タクシーに乗った」自分をひたすら呪うことになります。

一言で言って東山で一番「どうにもならないエリア」ということで、よって私などは最も忌避すべき方向であると吐き捨てるが如く立寄らないエリアでもあります。

 

先般望遠レンズ付きカメラ持参で女性参拝客専門を被写体とする学校の先生が「迷惑防止条例」で逮捕されるシーンを放映していましたが、それだけの雑踏と化す場所です。

 

話は変わりますが、私も一眼レフを持ち歩いていますが、通常は望遠レンズではなく広角レンズの装着で動いています。

墓石等は寄って撮影することで望遠レンズは不要ですし、大型建造物の場合は広角レンズで引いた画像が撮影できますのですこぶる都合がイイのです。

 

私が清水寺そのものに物見遊山でぶらついたのもはるかかなたのむかしむかし。しかし先日はちょこっとぶらついてきました。

「おい!前述の内容と矛盾しているじゃないか」と言われますね。当然でしょう。

しかし私がこういう場所に出向くときは、大衆の動きの逆を突くことにしています。

そのことによってあのお土産屋が連なり徒歩であっても人との交錯で危うくなるような、あの仁王門にあたる松原通をすいすいとまさに「楽勝」で車で上がることができます。

 

そうですね。早起きするのです。

たしか午前7時以降は車両の進入は禁止になりました。よってだいたいお土産屋さんの納品車は6時30分勝負で駐停車していますので、こちらへの中央突破は午前6時前がおすすめです。

 

この清水寺は今でこそ人気スポットとなっている古刹ですが、あの嫌悪すべき明治維新の神仏分離の強行と廃仏毀釈の嵐によって一時はボロ寺だった頃があったのですね。

このあたりのところを詳細にレポートされている「しばやんの日々」というブログがありますので是非に訪問してみてください。

世の中で「梵鐘のある寺」はそう多くないと先日記しましたが、「金属類回収令」よりも前に梵鐘・仏具を没収された寺もあったと聞きます。

 

そしてこの寺の拙ブログ的にいう「見もの」といえばその廃仏毀釈の際、こちらの寺に逃れた、あるいは捨てられた石仏たちが集合している場所があるというところでしょうか。

まあ、あのお寺の観光の目玉は別にありますので、この石仏に興味を抱く方は稀でしょう。

 

石仏たちは前述の「先生」がのらりくらりと逃げて行った方向、仁王門に向かって左方向へ回った右斜面になります。

 

①外国人は早起き。

⑤画像はちょうど朝日が射しこみ始めた京都盆地。

石仏の中にはこん棒でぶん殴られて首を飛ばされたようなもの、顔だけ削られているような痕跡も見受けられます。

 

日本史の教科書で教わらないコレらは日本人というか国内庶民にまで流布された政府の指示による仕業でした。

今そういう人が居ると「罰当たり」とご一同罵りまくりますが100年とちょい以前は「国」の命令があった時代。

 

為政者にシバリを入れて、国民が監督するシステムというものをなくせば「またああなる」と危惧するのが昨今なのでした。