生きていれば毎度「驚き」というものがありますね。
逆説でいえば受け取り方はそれぞれでしょうが要は「驚き」や感動」がなければ「生きているとはいえない」などと言っちゃったとしたら怒られますか?
よって時として自分を無理やり驚いて感動する方向を演ずることも必要だと思っています。
私の場合、それは「人と接すること」。
そして「外へ出ること」です。これはどなたであってもそうでしょう。
そのように「風に吹かれて」みるのも一考。勿論こたえは「風の中にある」といいますし。「how does it feel?」との問いかけにも反応しなくちゃね。
痴ほう症に陥る殆どの人が孤独や引きこもりを要因としています。お話をする相手に恵まれないということでしょうか。
若い人も端末相手を主とした時間が多い方はご注意アレ。社会に身を投じていることが如何に大切かということも・・・
私は温かい血の通う会話が私の弱いお頭を刺激してくれています。その情報源となるのが、法縁。その機会は比較的豊富ですからね。
さて驚きの中にもいろいろあって、昨日の御斎(おとき)で隣に座った方から「住職はあのポルシェはどうしたの?」と。
「え~っ」と思って「何の事?」と聞き返せば「アレは住職が乗ってるポルシェだ」と誰かに聞いたと。
まぁ無責任な噂の類なのでしょうが、たまげたの一言。
隣の墓地にお参りに来た方で拙寺の駐車場に置いていく方を思い出しましたが、たまたまそれを見かけたのでしょうね。
世間様に「ポルシェやフェラーリ」に乗ったらオシマイ・・・なるコンセンシャスがある中、「門徒の坊さんではまずそれは無いのでは・・・」と私なりの主張をしておきました。知っているお寺はみな余裕のある感じはありませんから。
そういったつまらないお話に続いて、先日相良資料館の画人展での長谷川氏からの「有意義な時間」について。
それは彼が集めている相良に関する1枚の古はがきでした。
①②③の相良城を中心にその周辺が記された古地図(ブログ既出)を、なんとなく見ていた海岸線の松並木のライン。
③は画像を180度回転させたものです。
そのラインが明治から大正にかけての相良景観絵葉書に映っていました(④⑤⑥とも資料館の長谷川氏所有)。
発行元は拙寺檀家さんの布施書店と小山紙店で④と⑤はブログにて紹介済みです。
以前、小山さんから指摘をうけましたが、⑤の画像は「八幡山から萩間川越えの大澤寺を思わすが、画面左の段丘状の林が不自然」ということでした。
私も実はそこのところに意味不明を感じその信ぴょう性を疑いつつあったほどです。
現在の相良にそんな場所はありませんからね。
ところが、そこで初めて長谷川氏から⑥の画像を見せられて目から鱗、本当に「私の知らない」世界の底知れぬ深さというものを味わったのですが、⑤のその「段丘の林」の続きが映った画像が映っていたのが⑥。
⑥はおそらく今の小堤山からの東側を撮影したものでしょうが、あの堤の大きさに驚かされるのです。
今はあのラインを推測すれば乃庄さんの隣に根上松がありますが、あの道沿いがこの大きな堤防の海側の縁だったのでしょう。
現在はその面影はなく住宅地となっていますがこれを見てその規模の大きさだけでなく、安政の大地震の津波の被害が相良の町が軽微だったその理由が判明いたしました。相当新町側が低いことだけはわかっていましたが・・・
津波被害は旧相良「港」・・・「津」といわれる樋尻川と萩間川を遡上したものだったことがうかがえます。
ここでもしつこく記しますがここの「波津」の地名の語源はこの樋尻河口の湊・・・「津」からですね。「波のある津(港)」からです。
⑥図手前の田んぼについてと本通り付近の湿潤地帯はよく言われていましたがそれらを埋め立てるために堤を崩して使ったということが考えられます。
となると・・・なんて愚かしいことをしてしまったのだろうと思うばかりです。
10m以上の巨大な防波堤は江戸期の人々の感謝すべき贈り物だったのかも・・・。それを明治という時代?はその歴史の重みについて、知らずの事か無視したのかはわかりませんが開発という名のもとに取り去ったのでした。
それを今になって慌てて津波防御壁やタワー建設に向かっている姿を見てご先祖様はきっと呆れ果てていることでしょう。
下記画像は根上松。そして小堤山、北から東そして御前崎。
根上松が果たして津波によるものだったのか疑問になってきました。
12月14日は既報の通り藤田覚先生の夜間講演会があります。
藤田覚氏講演会
日にち 12月14日(水)
時間 午後7時~9時
会場 相良城址 史料館 牧之原市相良275-2
0548-53-2625
主催 教育委員会
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野村幸一 (日曜日, 11 12月 2016 07:06)
こういう古い町並みの写真を求めています!明治期の新丁、野村呉服店の建物の外観が写っているもの。
波津の親戚宅には野村庄太郎の油絵の肖像画くらいしか残ってないのですね。。。肖像画描けるくらいなので写真だって結構あったはずなのです。私の手元にあるのはほんの少しだけ。昔、火事にあったとか資産が無くなっりしたので、そういった記録もろもろもすったもんだの中で無くなってしまったのでしょう。しかも、私が持ってる身内の写真は我が家に残っていた物ではなくて当時の呉服店の従業員の方の家に保管されていた物を譲っていただいた代物なんです。誰か持っていないかなぁ〜(^.^)
今井一光 (日曜日, 11 12月 2016 07:41)
ありがとうございます。
当時新町の火災は頻繁だったようです。そのたびに御内佛、仏具だけはと外に放り投げたようで今も歪んだままになった御内佛を見かけます。
またそういった写真集は出ています。史料館脇の市庁舎2階、相良の図書館にありますので一度捲ってみてはいかがでしょうか。横町・本通の画像は結構あったような。
野村幸一 (日曜日, 11 12月 2016 08:27)
そうなんですか!知らなかったです。ありがとうございます!!
小山昭治 (日曜日, 11 12月 2016 16:31)
納得いたしました。松並木の樹齢を考えればわかりそうなものですけどね。
そんな事を考えず、古い並木と今の海岸の並木を考え違いするとは浅はかでした。
城の地図を逆さにすれば一目瞭然。お見事!
今井一光 (日曜日, 11 12月 2016 20:40)
ありがとうございます。
長谷川氏のコレクションで思わぬ発見がありました。
改めて堤(土塁)の無くなった相良の恐ろしさを思います。
名波恵之 (木曜日, 21 2月 2019 13:26)
大変勉強になります。
親の心子知らずの歴史版ですね。
江戸時代の堤防を参考に、今に活かして貰いたいです。
それにしても、何だろう写真から豊かさが伝わります。
今井一光 (木曜日, 21 2月 2019 20:04)
ありがとうございます。
昔の人たちの「何か」は大抵理由(わけ)があってのものですね。
たとえば地名の変更がどこでも流行っていますがその名こそ今の私たちへのメッセージのような気がします。工作物もしかりですね。