昨日は前回とは一転お叱りのメールと直電が放送直後にありました。もっとも電話は私が出たワケではありませんので聞いた話です。双方ありがたくお気持ちをいただきました。
お知らせの通り「東京ローカル」テレ朝の夕方のニュース番組で「除夕の鐘」が取り上げられ、見苦しくも拙僧の姿がモニターに映しだされたとのことでした。
何分当地では視聴できませんから様子はわかりませんが、限られた時間の中で「鐘撞をやめた経緯」が「クレーマーの1本の電話」が発端の如く受け取られてしまったようです。
その後約10年のブランクをあけて世話人会や婦人部との調整等をこなして檀家さんの賛同を得たうえ現在の定例(文化・・?)より約半日早く鐘撞を開始することになったのですが、だいたい
①そんなクレームなど突っぱねて説教するぐらいであれ
②クレーマーとの話し合い調整をまずするべき
③そもそも除夜の鐘は日本の伝統行事であるので「ノイジーマ
ジョリティー」を考慮する必要がどこまであるのか
④昼間では雰囲気が出ない
とのことでした。
①については気の小さい拙僧にはそんな大それたことはできようもありません。②は深夜の一方的な怒鳴り声の電話(複数回)で相手を推測できませんし、後日この件で別のメディアが周辺地域の個別調査に入っていますが、その際は不満やご指摘等は「一切なかった むしろ推奨していた」とのことでした。
③伝統行事といっても「除夜の鐘」に詳細不詳の行事で確定的な意味はないと思っています。よって拙寺は回数も108にこだわっていません。煩悩の数はそれだけに限りませんからね。
そもそも真宗的に言って「除夜の鐘」にそのような「煩悩を除く」ような効果などハナから期待していません。
何故なら「煩悩具足の凡夫」であって煩悩をそのまま、ありのままの姿で浄土に行くということを承知しているからです。
私どもにとって鐘撞はただのイベントとしても「OK、OK」(立ち姿の阿弥陀さんの印)のはずできっと「如来さんは臨機応変にやれ !」と仰っていると勝手ながら考えています。
また、昔は梵鐘は時を知らせるという意味があったかも知れませんが今はただ「ぶら下がっているだけ」でしたからね。
しかしこの鐘は例の負け戦を示唆した昭和18年の「金属類回収令」によって軍に徴収された鐘に代わる梵鐘を檀家さんたちが戦後の困窮の中で資金を出し合って作っていただいたものでした。
その鐘を有効利用しようと年一回のイベントとしたものです。
④開催を夜間から昼間に移行して地元の方々で注文、ご意見をうかがうことはありません。そればかりか、老若男女誰もが喜んで鐘を衝いています。
何よりそのイベントの開催によって檀家さん婦人部の皆さんが一致団結して協力して何かをやり遂げる姿はとても好ましいことだと思っています。
そもそもこのイベントは私が口をはさむ余地がないほどに檀家さん婦人部主導で進めていますので・・・
それこそがベストな形態であると確信しています。
尚、今度はそのビデオが大阪朝日放送で放映されるとのこと。
そうなれば次は関西弁のお叱りを受けることになりましょうが、覚悟しています。
喜んで承り今後の成長の「肥やし」にさせていただきます。
さて、先日「江州武佐」について久し振りに記していて、もしかすると初めて見た方からは「何を適当な事を言ってやがる」と言われそう・・・と思って改めてピックアップしました。
どこかにも記していますが・・・
こちらは拙寺に伝わる阿弥陀如来の掛け軸です。
「OK!OK!」の図のアップが左端。
3つ目の画像がこのお軸の裏書です。
<裏書>
本願寺釋顕如(花押)
天正十一年癸未(1583)閏正月二十三日
廣済寺門徒江州
方便法身尊形
蒲生郡 安土
願主釋浄了
願主「釋浄了」とは拙寺初代の今井権七の法名。
天正八年(1580)に石山本願寺を開城して和歌山に移って信長軍と戦っていたのですが本能寺の変(天正十年)によって信長による包囲軍が撤収してからもなお半年以上も顕如さんと一所していたことがわかります。
勿論このお軸は今井権七釋浄了が遠州への帰り際に顕如さんから御文箱と御文とともに頂だいしたものです。
数年前まではかなりボロボロでしたが修復しました。
このグループに野村・増田・河原﨑・澤田・赤松の五家の祖も一所だったといわれています。
コメントをお書きください
野村庄右衞門幸一 (金曜日, 02 12月 2016 23:40)
なんだか…思いもよらない方向に話がいってしまったようですね。
放送を見ましたが、確かにクレームが原因で除夜の鐘が廃止された…という風に受け取ってしまうような放送の仕方でしたね。今井住職が鐘をつくシーンと読経の場面と本堂が映るだけであとはナレーションでこれこれしかじか…
O-157が危険だから正月の餅つき大会が中止になった地域がある…との内容との抱き合わせ感満載でした。
マスコミの報道、やり方や伝え方で酷く誤解を生じてしまうので怖いですね。
ちょっと理解が曖昧だったのですが、権七と五人衆は近江から遠江の段平尾へ移った後に石山合戦に向かった
敗戦して段平尾へ戻り相良大澤へ
が正しいのですね?
今井一光 (土曜日, 03 12月 2016 00:01)
ありがとうございます。
マスコミについては致し方ないとして・・・
そこのところは曖昧です。一旦初代は安土からこちらにやってきて、顕如さんの檄に応じたというのが当家の解釈ですが、五家の衆がその行ったり来たりを同行したのか、天正11年に初めて来たのかは確証は得ませんが、増田家には家康の安堵状があったともいわれますし、5つの家が平均的に相良周辺に土地を得ていますので、やはりそれは高天神戦での功を評価されてのことだと思います。そうなると残した家族や郎党の一部(当家では寺を陣として提供したといわれています)が何らかの協力と働きして評価を得たことが考えられますので、安土からの下向から今井と五家あるいは四家は(赤松は三河から合流の推測あり)常に一緒に行動していた可能性があると思います。
野村庄右衞門幸一 (土曜日, 03 12月 2016 00:32)
確かに今井氏と五人衆がどこでどう繋がったのかは調べるツテがありませんから推測しかないですね。
城下町相良区史には今井氏の家臣五家との記述があったので共に行動していたのでは?とずっと思っています。いくら信仰のための戦とはいえ戦いの素人ではなかなか難しいですよね。近江出自の野村氏も佐々木源氏の支流ですから、うちの家系がその流れの末端にいれば武士の端くれだったのかもしれないと想像します。
昔、静岡県姓氏家系大辞典だったか忘れてしまったのですが榛原町の仁田村に庄屋を世襲した野村氏がいると書いてあるのを見たことがあります。相良の隣町なのでもしかすると江戸時代に分かれた一族なのかと想像します。
河東村出身者 (土曜日, 03 12月 2016 09:16)
録画して見させていただきました。
マスコミの悪意とステレオタイプ狙い(田舎で大晦日の晩の夜中に鐘をきくのがいい)が見え見えのコーナーだったので、テレビの画面に向かってつっこまずにはいられない内容でした。
それは置いといて、相良の五家は増田を除くと菊川側では同じ苗字をほとんどみない(野中、沢島、等微妙に似ているものはありますが)ので、直接相良に行ったか、武田軍撤退後の相良に集団で移住したか、ではないでしょうか。 一家・一族一緒にいければ助け合えますからね。(新野に新野さんが、高橋に高橋さんが、平川に平川さんがほとんどいないのと同じ理由で)
今井一光 (土曜日, 03 12月 2016 12:42)
みなさんいつもありがとうございます。
武田軍撤収後の相良はいわば家康鷹狩りベースからの発展を遂げた城下町で
その初期街づくりに相良本通りに寺ごと招へいされたのが接寺であり、寺のスポンサー
にもなった五家一族だったと思います。
まるごと相良地区に移動と考えるのがスジでしょうね。
そこから少しずつ400年かけて分家が広がっていったのでしょう。
今井一光 (土曜日, 03 12月 2016 22:00)
また誤字でした接寺→拙寺
Devorah Oates (木曜日, 02 2月 2017 08:24)
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