昨晩のNHK「ためして・・・」は静岡人に自信を持たせる番組でした。「口内フローラ」について・・・(詳細は再放送12月6日(火)午前0時10分にて)。
口の中は「細菌がいっぱい」ということですが、そのうち善玉菌90%悪玉菌10%が絶妙バランスだと。
特に悪玉菌について、その悪の代表格である「歯周病菌」が増えれば・・・ロクなことが無いという番組でした。
歯周病菌は口の中に留まりつつ嫌気性ということで体内に深く入りたがる傾向があるとのこと。
今のところそのメカニズムについては不詳ながら痴呆から心疾患、癌、リウマチ等の発生部位に必ずといって見受けられるということで、この菌が疫病神となっていることを示唆していました。
ということで「口中はいつも清潔に」ということで歯磨きが推奨されるワケですね。加えてうがいを推奨していました。
特に緑茶のカテキンが他の飲料に比べてダントツで有効(殺菌効果)とのことで(飲み込んでしまってもOK)、どうやら寝る前の緑茶は特にイイということがわかりました。
まぁ年がら年中緑茶を飲んでいる静岡人の全国ご長寿トップレベルというのを立証されて確信を得た番組でした。
ドンドン緑茶を飲みましょう。
これから冬季は風邪にもイイと思います。
父母は寝る前というと緑茶を控えていましたが、その習慣はどうにも「ダメダメ」ということがわかりました。
「夜眠れない」を言い訳にしていましたが昼間体を動かさずいつもうつらうつらしているからカフェイン成分が効いてしまうのでしょう。
さて、私周辺の歴史関係に触れている皆さんの中で共通する歴史をひもとくうえでの「認識」というものがあります。
それが「御説も3回繰り返すと史実になる」ですね。
私も含めて、わからないところを推測して記す事はよくありますが、自分でも何度か記しているうちにそれが・・・「あたかも史実みたいなこと」・・・「ほんとのところ」・・「史実」というように思考が成長していくようになるものです。
それを皆さんはちゃんと知っていて、何とか自重し、あるいは但し書きをして断定を避けていきますね(学者となれば当然)。
しかしお念仏ではありませんが、繰り返しているうちに素人は自分自身その自説を信じ切ってしまうという愚かさを演じることがあります。
私もこのブログで勝手なことを吹聴し「嘘へったくり」をもかましている日々を送っていますが、とにかく「大概に」しなくてはなりませんね。
ところで私は「高天神城一番」のようなことをブログを始めた最初の頃に記していましたが、最近ともなるとこと近江方面に興味が移っています。
母系を無視した先祖のわかる範囲での「出たところ」が近江であったことと、たまたま祖母が近江浅井系庶流の家(小田原「みのや」)の出ということもあってのこともあります。
また当相良には比較的近江出自の家が多いですし・・・。
遠州には無い真宗的歴史感にも触れられることが多いということもあげられます。
真宗寺院もやたら多いので親近感が大いにあります。何より静岡に無い風景にも惚れ込んでいます。
私は氏姓について各その出自について少々興味がありまして、それは450年前に拙寺初代と遠州に一緒にやってきた人たちの出自に少しでも触れられればという思いもありますが・・・特に江州を歩いて、どのような城館があってどのような氏姓、地侍どもが関わっていたのか、最近いよいよ興味が湧いてきました。
そこで中世史料に残るのは武士階級ということもあって限定的とはなりますが、各調べてみると表記の「江州佐々木南北諸士帳」が目に付くようになりました。
近江では他にも「大洞弁天当国古城主名札」や、語り物では「江源武鑑」(江源・・・近江源氏・・・)が著名ですね。
話が飛びますが近江六角氏周辺の出来事を記した「江源武鑑」はデタラメ説もあったりして主流としては「偽書説」が有力ですが一方で支持する歴史家もいたりする「問題の書」です。
私はそれを「無茶苦茶なデタラメ」とは言い切れないと思えてなりませんが・・・。現代語訳などネット上にありますが、なかなか読ませます。
まぁ当方が「デタラメだ」と指摘できうる能力が備わっていないからなのでしょうが・・・。
よく言われる「年号の錯誤」など、私の周りにある文書の類は軒並みありますからね。
とにかく「昔の話はわからない」というのがごく当たり前のことなのです。照合のしようがないのです。
少ない資料の中からそれらをつなぎ合わせたり間違いを把握しながら「正解に近いもの」を導きだせれば「ヨシとす」というところで、歴史解釈に「大正解の花丸」は絶対にいただけないということなのです。
すべて知らないことで知り得ないことなのですから。
「論理哲学論考」ではありませんがホントは「沈黙」していなくてはイケないところかもしれません。
ところが歴史学は「史実を推測して人の動きを読み解く」ことですので「沈黙は悪」ですね。
だからそれぞれ色々歴史家という人達がいてそれがまた、色んなことを言いだして「3回主張すればほとんどホント」になってしまうのでした。
再三の憎まれ口となりますが、遠州吉田城については完全に「✖」ですよ。
無かったものを明らかなものと錯誤を与える鉄筋コンクリートで「建てちゃった」のですから。
観光資源とはいっても歴史を歪曲して知らしめることになりますのでイケません。露骨すぎます。
大河ドラマの過度な演出・プロデュースも閉口するところ。
今やホームドラマ化していますからそれはそれとして観ればいいのですが・・・。視聴率のため、致し方ないのでしょうか。
そういう意味では「江源武鑑」と同様です。
画像はヨシダと同じ鉄筋コンクリートでも価値ある出し物企画ものを催す博物館、見た目で人は「長浜城」と呼びます。
その手のモノは大抵は「一度行けばイイ」と思うところではありますが、その博物館としての出し物が結構面白い企画が目白押しなのがここ。捨ててはおけないのです。
場所がら吉田城(小山砦)とはさすがに違います。
出し物次第では相良から飛んでいきたくなるものが時折ありますね。
上記最後の画像が彦根方面。佐和山の丘陵の右側に彦根城が見えます。
「江州佐々木南北諸士帳」に戻ります。
これは城と人名の羅列であってカタリの読み物ではありません。「江源武鑑」と同様、江戸時代に記されたもので、滋賀県教育委員会によれば『「江源武鑑」の影響を受けている点が見受けられるので注意は必要』の但し書きはあります。
そして「必ずしも荒唐無稽とはいえない」と評価があるように史料的価値は大いにあると思います。
とにかくこの「氏姓の羅列」は私にとってはありがたいものがありますね。
また明記された彼らを歴史の中に埋没させては申し訳ないという気もあってこの機会に「江州佐々木南北諸士帳」をアップすることとしました。現在書写中ですので行く行くはそちらに記されている城館と主と住人たちをブログにてあきらかにできると思います。
そのうち「220名」と抜きんでてリストアップの数が多い「坂田郡」のうち「今浜城」を小出しにしましょう。
力の入れ具合から京極系の要となった場所であったかも知れません。
ご存知今浜城とはのちの長浜城ですね。
それを書写していて気が付いたところ・・・少々
まず、通説の「今浜」在住の今浜氏の名が見えて来ないところ。
冒頭から佐々木氏信の名が出てきています。割愛でしょうか。
またその下の「三塚備後守」は「江源武鑑」に登場していました。その件読ませますね。決してウソとは思えません。
こちらの書物はその名の通り「江州佐々木~」ですので「長浜城」との記述はありませんね。
実は「長浜」は秀吉時代のみの名なのかもしれません。
江戸期になって長浜(今浜)の城は廃されてほとんどが彦根城の部材になってしまいますので・・・。
今の長浜という名称の本格的名のりは「秀吉」と「信長」をイメージした回顧的なものなのでしょう。
ちょっと待って・・・と思うところは「佐々木随兵初テ甲州ヨリ武田信玄来ル長浜ト改 長浜民部少輔」のところ。
信玄がココに来たの? 長浜の文字がここで初めて出てきましたがひょっとして「民部少輔」とは石田三成?と・・・立て続けに疑問が・・・
こういう史料はあんまり考えすぎてはダメ。
あくまでもあっさりと・・・「其後天正十八年 羽柴筑前守秀吉」も唐突ですし順序的に下の段に勝家の甥の勝豊(柴田伊賀守)が出てくることなど大いに鷹揚に見るものですね。
また長浜の近くに上坂(上坂田)という地(下坂田もアリ)がありますが、
「京極高清臣梶原末 上坂兵庫頭泰舜」とあるように「上坂」(こうさか)の出自が梶原末と記されています。
先日記しました駿河で滅んだといわれる梶原の傍流が上坂に落ち延びて再興したことを示唆していますね。
それでは一部分ですが「江州佐々木南北諸士帳」から抜き書きした坂田郡今浜城の件
『 坂田郡
今浜城主 佐々木十一代屋形壱岐判官信綱公四男高氏
初而居城是京極家元祖 京極対馬守氏信 今浜城 住 三塚 備後守
今浜城 佐々木随兵 大塚兵内左衛門
「益永」(郡志)
今浜城 住 佐々木随兵 大塚志摩守之長
今浜城 住 佐々木随兵 大塚七左衛門
今浜城 住 佐々木京極随兵 河村太郎季知
今浜城 住 生駒丹後守
今浜城 住 同男 生駒孫三郎
今浜城 住 佐々木随兵初テ甲州ヨリ
武田信玄来ル長浜ト改 長浜民部少輔
今浜城主 京極高清臣梶原末 上坂兵庫頭泰舜
今浜城主 其後天正十八年 羽柴筑前守秀吉
今浜城主 勝家男 柴田伊賀守
今浜城 住 其後秀吉随兵 内藤紀伊守 」
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