巨大寺院の塔頭址は曲輪?  寺であって城  百済寺

芦浦観音寺を後にして「紅葉見事」の誉高い湖東三山の手始めに百済寺に寄ってみました(こちらまたはこちらも)。

例の怖いもの見たさです。

「人気」といっても近江の鈴鹿山脈に繋がる丘陵という立地(山です!)からどうせ大したことはないだろうとの判断でした(場所はここ)。

 

ところがどっこい大いに驚かされました。

私は別件で確認したい石垣がありましたので売店のある駐車場もその下の駐車場も目指さずハナから少々余分に歩くこと承知で路線バス折り返しの駐車スペースにちゃっかり駐めて歩いていました①。

 

赤門②を潜って石垣を楽しみつつボチボチと歩きながら左方向の道路に目をやるとなんと駐車入庫待ちの車が列をなしていたのでした。

警備員も複数出て「1台出たら1台入れる」の順序立てた交通整理をしているほどでした。

ということでお山の上は遊園地状態。足元が積もった落ち葉で滑りやすくて歩きにくい中、すれ違いもままならず、ましてはカメラを向けたとしても「人さまの頭」を撮影しに来た如くで普段の私の行動環境とは完全に違っていました。

 

「中核部300坊と周辺部700坊の合計1000坊で構成」とは寺の掲示板にありましたが、これは室町中期の頃までの推定でしょうね。別の史料での「堂塔300余坊僧俗あわせて1200人」が近い構成だったのかと思います。

衰退の始まりは勿論、応仁・文明の乱。それ以降大永の頃(1523)の史料では47坊797人と減少傾向がわかります。

それが信長による焼き討ちで天正元(1573)には灰燼に帰した(ゼロ)ということですね。

 

天文の頃、1536年の記録によれば洛中を騒乱状態に陥れた「天文法華の乱」への出陣している記録があって比叡山と同じに多数の僧兵を抱えていたことがうかがえます。

 

左右の石積と石段を歩いて郭の如くの石垣で囲う斜面に削平された地所を目にして、連郭を思わない人はいないでしょう。

しかしこの石積みは当初から塔頭寺院僧坊だったといいます。

ただし永禄十一年の信長による近江侵攻に前後してそれら僧坊址には城郭を補助する改変を加えた跡が見つかっているとのこと。

 

特に今の拝観コースを外れた森の中に顕著な遺構が隠れているようです。本堂や参道両側に存在する約160か所の堂・僧坊・墓地址の分布調査の結果、北・西・南の三面より包摂するかたちであるようです。堀切・切岸・土橋に土塁が確認できるようです。

切岸の存在は坊の石垣に対して人工的斜面の存在から城郭遺構としての切岸の確証を得ているようです。

私は本堂の上方に上がる階段があったため一応は進んでみましたが何かの痕跡を見るには至りませんでした。

 

私が車を駐車したあたりと南側にも数段の郭や物見台らしき出張った場所もあるようです。この山は水が湧いているかのようなぬかるみがあって探索に行くには長靴が必要なのかも知れません。

 

最後の画像は「比叡山が見える」の図。

「今日も隠れて見えない」と思っていれば、「比叡山見えてるよ」の声。私はまったく違うところを見ていました。

結構遠くに見えてびっくり。この日にあの山を越えて京都に向かうという選択肢があったことが不思議なくらいでした。

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (月曜日, 28 11月 2016 09:12)

    混んでるわけでしょう。
    先日NHKで放映してましたよ。

  • #2

    今井一光 (月曜日, 28 11月 2016 18:41)

    ありがとうございます。
    名所と言われる場所のオンシーズンの土日は「凄い」ことがわかりました。
    湖北の寂れた山寺がいいかもしれません。