23日に京都近くまでやってきたにもかかわらず直前反転して帰還したことは息子にとってはショックだったでしょう。
これから行くとも伝えず「今ココ」とばかりに草津辺りで道路標識を写メしていました。
すると昨日になって相方のメールに「飢死寸前」と後詰の依頼、致し方なくやりくり兵糧資金を小量送付した次第でした。
さて、1年に数回(春と秋)門が開く、いわゆる特別公開の日を設けていたのが芦浦観音寺、「23日」の目的はこちらでした。
人は「滅多に見られない」ものを「特別に」と言われると「ついつい」どうしても見たくなってしまうのですが、私も同様です。ただし秘仏御開帳の類だと「勿体ぶりやがって・・・」の感と胡散臭さもあってあまり興味が湧いてこないものです(前回芦浦観音寺)。
もっとも当方の都合が合わなければどうにもなりませんので、それもご縁として承っています。
直近では予定していた、聖衆来迎寺の六道絵の虫干し展示会には向かうことができませんでした。
8月のお盆の翌日とあって厳しい日取りでしたから。またのお楽しみです。
信長上洛の際、足利義昭将軍職返り咲きの褒美として「将軍補佐役」(副将軍)の地位指名を提示されますがそれを鼻であしらって信長は「堺と大津と草津」の統治を確約させたことは著名です。これは形骸化している地位などよりも「実」を取った信長ならではの「キレ」ですね。
この3つの地は畿内三大物流拠点であってこの地を統括し、税収をあげれば、経済的基盤は盤石と成り得ます。
畿内ベストといえば当時でいえば「日本国のベスト」と言っても過言は無かったでしょう。
中でも「堺」は南蛮から大陸との交易に欠かす事はできない場所で特に歴史上著名な場所でしたが、琵琶湖交易の要である大津と草津も稼ぎになる絶大なポイントでした。
「草津」は地理的に街道筋(東海・北陸)にあたります。
京都へ向かう比叡越えの道は対岸となり船便乗り換えでショートカットができる場所です。また「草津」の語源は・・・
「種々(くさぐさ)の物資の集まる『津』」といいますので、古くから水陸の物流拠点であったことが推測できますね。
この芦浦観音寺の起源は聖徳太子の時代といいますが、本格的に歴史上名を示したのはやはり織田信長時代となります。
衰微の時代を経て宗旨を天台に改めてからとなるそうで、信長はこの寺に琵琶湖の水運権を与えました。代官としての任務ですね。
拝観当日にはその各証書を認証する「判」の写真が展示されていましたがその撮影も不可でした。
この「判」の有無によって通行の許可が判断されたということですね。勿論そちらで税を納めることになるのでしょう。
現在は年数回の開門と朽ちた土塀を見ても管理が難しくなっている状況がわかりますが、この寺としての近世窮状は1600年代後半の江戸幕府からの手切れからです。
信長以降は交易主眼に経済的に裕福な時代を通してきましたが、幕府はその交易監督のお役を免じたのでした。
一時は江戸屋敷を持つなど、寺院としてよりも官庁としての立場を示していた様子がうかがえました。
境内は室町期の国人領主城館の如く(一町✖一町)のコンパクトな方形を思わせます。
まずは室町期のものといわれる阿弥陀堂と鎌倉期と伝わる阿弥陀仏立像が見ものです。
他にもたくさんの史料が地区博物館等で管理されています。
阿弥陀堂は私が見た中では2件目となる茅葺屋根で小振りながらも重厚で渋い作り。日本の伝統的細工の施された外周部材に惚れ惚れいたしました。
ところが中に待っていてくれるはずの阿弥陀さんは須弥壇に写真が掛けられているのみで残念なことでした。
ボランティアさんによればこれは重要文化財指定になっているので、「別の場所にあります」と。
どうやら常設展示かどうかはわかりませんが、「滋賀県立琵琶湖文化館」に預けられているようです。
博物館としては収蔵物を常設展示にせずに地方の博物館回りをさせて稼がなくてはなりませんので・・・そういった入館料がまたお寺へ還流して維持の一役となるのでしょう。
阿弥陀さんは光背が銅製レリーフで梵字が入っているようで天台系密教色もチラリ。身長は90㎝とのこと。
ちょうど草津市長も訪れていてボランティアの人たちの労をねぎらっていました。
近江という地は文化というものに対する首長の感度が高いのでしょうね。
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