第二寝屋川の八尾側、木村重成の墓の隣に山口左馬介なる人の墓がありました。
尾張(鳴海城)にて今川-織田の一連の攻防戦にもその名が見えますが大元は西国の名家大内氏の流れ(周防出自)を組む「山口」という説があります。
尾張出身の「山口」の世間の評価といえば当時は一目を置かれる名家であったことは確かです。
その人の名は山口弘定。
木村重成の妹婿といいますからきっと重成二十三歳よりも若かったのでしょう。
その人も「若江の堤」近くにて重成と同様、井伊直孝率いる赤揃え軍に討ち取られたといいます。
その一方激戦の若江堤にて木村隊によって討死した「井伊方の山口」もありました。山口重信二十六歳です。
もし、前述の通り同族であったとしたら、これは真田一統にも言えることですが、敵味方との分かれは歴史の中の皮肉ですね。
しかしここで死した山口重信という人もそうですが、その父山口重政のこの戦への執念と闘争心というくくりでいえば「戦国期の特筆すべき親子だった」と言えるのではないでしょうか。
その執念とはひたすら「お家再興」。
これは大名としての名家復活以外他にありません。
経緯としては山口重政は尾張時代には織田信雄配下のとき、信雄が秀吉に嫌われてそれに伴って一旦牢人したのち徳川秀忠家臣となって関ヶ原後には常陸牛久1万石の大名にまでになりました。
ところが慶長十八年(1613)に大久保忠隣の養女と嫡男の重信が幕府の許可を得ずに縁組したことを幕府から咎められて山口一統は改易、武蔵に蟄居という身にまで成り下がりました。
この件は同時進行中だった幕府の大久保忠隣外しの巻き添えというかきっとその流れに巻き込まれたのでしょう。
この親子は真田昌幸と信繁親子の執念にも似た執拗さで復活機会を虎視眈々狙う戦闘待望論者だったわけです。
当時の武士が名をあげるチャンスは戦争以外はありませんから当然でしょうね。
そこへチャンス到来、豊臣方が短慮にも(というかのせられたという感)江戸方と手切れとなって「大坂冬の陣」とあいなるのですが、あくまでも武蔵での蟄居の身、大坂に向かおうにも動けなかったといいます。身分を隠して何とか関所を通過した頃には大坂-江戸は和議が成立して目論見は大外れ。
読みとしては「まだある」と見込んでいたのでしょうか、彼ら親子の願いは通じて「夏の陣」の最大チャンスが訪れることになります。
武闘派にとっての最大の最後のチャンスだったわけですが親子は井伊直孝軍に入ることができ、若江にて木村重成軍とまみえることになったのでした。
そこで亡くなったのが息子、伊豆守重信と弟の重克でした。失うものは大きくともその戦功によって親子の願いは成就、常陸国牛久に一万五千石として山口家再興が成功したのでした。
河内名所図会の木村重成の墓の左ページに「山口伊豆」と記された箇所があって柵の中に亀に乗った墓碑が見えます。
こちらは「亀趺(きふ)―贔屓(ひいき)」という霊獣で江戸期の大名墓の土台装飾によく見られます(相良にもあります→本多忠通の墓)。
まぁその辺りはググっていただければOKとして、図会と変わらない墳墓が今も残ります。木村重成墳墓のある八尾の対岸、殆ど橋を渡ってスグの場所、若江南墓地にあります(場所はここ)。
墓碑篆刻は剥離崩壊寸前で補修保護の手が不可欠ですね。
一番最後の画像が既報と思いますが井伊直孝に御預けの身となって佐和山の龍潭寺内境内に蟄居した大久保忠隣の住まい址。
門を潜ってスグ、左手に石田三成の像が見えます。
みんな井伊直孝つながりでした。
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