昨日飛び込んできたニュース、「後藤又兵衛の首」に関わる文書の発見に驚かなかった人(この世界興味の方で)はいないでしょう。当時「槍の又兵衛」と言えば「奉公構」でも名をあげましたがそれはいわゆる黒田長政の嫌がらせですね。
その名としては真田信繁が父と家の「名」だけで発言権を得たのに対して後藤又兵衛の方といえば歴戦と武士としての潔さで格別。大坂城方、江戸方双方ともその名を知らぬ者はいなかったでしょう。
当然に徳川方としても夏の陣直前まで戦いたくない相手として懐柔工作は当然の如く行なっていたでしょうね。
歴史上司馬遼太郎の「若江堤・・」にもありましたように乳母どもと女官、そして彼女らの夫と子供たちが譜代として城内権勢を振るう状況の中、牢人傭兵の後藤らの扱いは常に「二心」を警戒していた扱いであったというのが通説です。
ところがこのほど公開されたその文書には又兵衛配下の金万平右衛門なる人が、又兵衛の指示があったのでしょう又兵衛の首を、兵衛が秀頼から拝領した刀で落としてから刀を返したということが記されているというものです。
その際「首も持参しようと思ったがそれは果たせずに旗をもって代用した」という件です。
伊達方鉄砲隊に撃たれて戦線離脱し「討死」というのが通説のようですが、そのあとの経緯が記されていたということです。
文書は彼の首を取った金万平右衛門の家系から発見されたといいます。実物は岡山県立博物館に展示されるようです。
この文書はこれまでの城方の心中、潜在的「二心」への警戒はそれほどでもなく、秀頼と又兵衛ら外様牢人傭兵部隊の双方にはある程度の信頼関係があったという証拠になりうる文書でした。
しかし、ひねくれ者の私としてはあの戦況不利の中、わざわざ自分の首にもらった刀を添えて「このザマでした」を家臣に報告させることはある意味「秀頼様の御武運の無さ」・・・その根拠は譜代女人衆に振り回され、御出陣がかなわなかったことへの大いなる皮肉のように感じてしまうのは私だけでしょうか。
それこそが又兵衛のそれまでの生き方として矛盾するものではないと思います。
さて、夏の陣にて若江・八尾での「壮絶」は後世色々なカタチで描かれていますが当ブログで若江木村関係で記したのが銅像と彼の奥さんの青柳についてでした。
木村重成銅像の脇に石碑がありましたね。
彼の若江の陣は若江鏡神社付近でしたが付近の第二寝屋川沿いに彼の墓碑が建てられています(場所はここ)。
旧河川域は埋め立てられて新造された流れですので、この場所を訪れると小説の「堤」をイメージしてしまいますが、それとは別の場所となるようです。
木村が名を最もあげたのは冬の陣での活躍でも茶臼山和議の様子からではありませんね。
何といっても青柳との別れの段でしょう。
あくまでも伝承ですが「青柳に兜の空炊きをさせて」(小説)出立の際の兜の忍び緒を切ったこと(二度と兜を脱ぐことはないの決意)ですね。
首実験で彼の首から兜が外された際に香の香りが漂ったといいます。
ちなみに私も以前、衣へ移り香を期待して空焚きをしましたが安物だったせいか大した香りはしませんでした。
きっと物凄い大量の香を長い間炊かない限り無理でしょう。
衣でさえそうですから漆塗りの兜にそういった香りを漂わせることは・・・やはり厳しいかも知れません。
前のブログでは「青柳」が「木村出自の近江馬淵に落ちて子を産んだ」という説を記しましたが彼のこちらの墓碑には家紋として近江佐々木流の「四つ目紋」の変形で「隅立の四つ目紋」が光っていました。
木村重成は赤鎧の井伊直孝率いる精鋭軍と激戦になって討ち取られますがその墓碑は首を取ったといわれる井伊家家臣の安藤長三郎の子孫が彼の百五十回忌にあわせて建てたといいます。
第二寝屋川を渡った彼の墓碑のある場所は八尾市になります。⑥山口左馬介(木村重成の妹婿)の墓も同所に。
⑪は墓域を道路・河川側から見たところ。
⑫第二寝屋川の記された欄干と赤矢印が墓域。
⑬こちらは「西木村橋」と重成の名が見えます。
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