一昨晩から朝まで降雨が続きましたがお日様が出て初夏を思わせるようなポカポカ陽気になったため、いてもたってもいられず、昨日は金谷まで出てからバイパスを静岡方面へ向かいました。
賎機山トンネルを越した頃にはあの相良の青空は姿を消していて「天気予報にヤラれた」とボヤきながらもその山に向かいました。
降雨直後の山道は「まぁロクなことはない」ということは承知の上ですが、何せ運動不足が続いていますので「空気供給過給」の仕事を心臓と肺に思い出させる意味もありました。
ということで近郊のお気軽そうな山を選択したという次第です。
ハイキングと言っても途中までは農道を車で上がりますので駐車帯に停めて「ほんのちょっと」です。よって徒歩は往復1時間弱の行程でした。しかし足を進めながらも心にはもっと条件のいい日に来ればよかったとその拙速を反省の気持ち。
以前から門前掲示板に貼りつけた紙キレなどが風で飛ばされて、そのたびに付け替えていましたがまず必ず画鋲は消えて無くなっていました。
誰かが踏んづけたらさぞかし腹が立つだろうとは思いつつも探しようがありませんのでいつも放ったらかしにしていました。
昨日はその山の頂上から降りる段になって左足の土踏まずに針で刺されるような痛みが・・・。靴の中を覗いても何かの突起は出ているのはわかるものの「鋭利な枝にしても鋭すぎる」程度でいったい何なのか判明せず、そのまま気になりつつも下山続行しました。
ぬかるんだ下りの山道を足の痛みに気を使いながら降りるのは少々ヤレヤレ感がありましたが、無事に帰還。
帰宅して、いったい何が刺さっていたのかを楽しみにしていましたが靴紐をほどいてからペンチを差し込んでそれを引き抜いてみれば・・・何と画鋲の針の部分でした。ベース部分は勿論離れて針部分のみです。
山の中に画鋲は落ちていませんからね。きっと知らないうちに境内で踏んづけていたものが分厚いゴム底を貫通し、山道の段差によって少しづつ針の先端が顔を出したというところでしょう。これはまさに「自業自得」でした。
さて、梶原山とは地元ではファミリーや夜景を楽しむデートコースのよう。超お気軽の丘の如く(場所はここ)。
頂上まで上がって初めて知ったのですが、頂上広場の近くには駐車場がありました。
途中すれ違った方も地元の方で「しょっちゅう来る」とは言っていましたが車で「そこいらまで」来ていたようですね。
私は事前調査なしでただ途中まで車で上がって「ハイキングコース」の藪に吸い込まれるように登り出しましたが他愛もない山だったようです。
私の場合は「夜景スポット」など関係なく墓碑等、史跡という観点からその場所のみをストレートに目指しますのでそういうことは往々にして起こります。断片的記憶のみで向かったからそうなったのですが、いまや「梶原山」とクグッたたげで歴史よりも観光のウェイトが掛かった話題ばかりで、事前にそれを知っていればハイキングにはならなかったでしょう。
久し振りにちょっとした山歩きができたことに感謝しています。
その「梶原山」という名称は正治二年(1200)に起こった「梶原景時の変」にちなんでつけられたものでしょうが、「牛ケ谷の山」が本来の名称だったようです。
梶原景時といえば石橋山で源頼朝の危機を救いその後の鎌倉幕府成立の立役者です。最大権威者頼朝の直下にいて文武両道の人。
頼朝の脇に常に居て辣腕を振るいましたがそれは秀吉の下の石田三成の如くでいわゆるキレ者です。
そういう役柄は往々にして嫌われ者の烙印が押されます。また後世の読み物演劇などでも彼の評価は低くあの頼朝の義経殺しを炊きつけたのがこの梶原景時と言われています。
ほとんどその件は彼に直接の関係はないと思いますが、世間巷間の趣向というものは誰かを敵役にするのが常というものでしょう。
彼の悲惨は頼朝の死後に突如訪れます。
これまでの有力御家人たちの恨みつらみが噴出し彼を陥れる弾劾状というものが連署されて、あげられてしまいます。
66名もの御家人の連署が集められていますがこれらのメンバーを眺めても面白いものがありますのでご興味のある方は探索ください。
「景時弾劾状66」に北条時政・義時の名は見られないようですがかなり臭いですね。本当のワルは影に潜むといいますがまさにそれを地で行く感があります。
何故ならばこの件が頼朝後の北条家による将軍と有力御家人排除の端緒であると考えれば合点がいきます。
哀れなのは連署を記したメンバーの中に次に粛清されていく和田義盛、畠山重忠、比企能員なども名を連ねていることですね。和田もブログのどちらかで記しましたが探しきれませんでした。宇都宮はこちら。
今ファミリーが遊ぶお気軽な観光地の梶原山は実は梶原一統33名の無念を弔う石碑がその一番の景色を誇る場所に建てられています。
私は連判状の提出によって弁明もせず素直に鎌倉を退去する梶原一族に潔さを感じて肩入れしたいところなのです。
彼らは今の清水を通過する際、待ち伏せにあって散々に追い立てらながら四散し、景時父子はこの山に追い詰められたうえ自害したといいます。
街道には一族33名の首が並べられたとも。
800余年が経過しているとはいえこちらは「墓域」でありました。
⑪画像赤い→は今そこから出てきた道を振り返ったところ。
⑫を見てびっくり。舗装路がありました。
山頂に上がれば靄がかかってはいましたが多少の青空はありました。結局その夜はクリアなスーパームーンは望めませんでした。
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