日曜の午後は温かくていいお天気でした。
その流れで翌14日、昨晩のスーパー満月を拝見できればと思っていましたので一日中小雨交じりの天候は月見期待の衆にとっては不運でした。
「十六夜」の15日の晩は何とか晴れそうですので期待しています。月の大きさもさほど変わらないともいいますし。
日曜日は勝間田城540年のイベントがありました。
仕切りはあくまでも「勝間田区」の主催ということで、牧之原市全体で盛り上げているという感じはイマイチのイベントです。
相良から勝間田小学校といえば距離的にも結構ありますね。
例の「相良対榛原」(牧之原市合併前の町名)の構図もいまだ「実はアル」のかな?と思った次第です。
私の考えでいえば「勝間田城」レベルのモノを地元区だけで任せていていいのか、とも思いますし、区の方のイベントを完全に奪い取ってしまうことはイケませんので地元イベントは残すにしろ相良地区への広報活動と人の流れはもっとあってもいいものかとも。
当日は小和田先生の講演会が勝間田小学校の体育館であったのですが、周辺駐車場管理は勿論、ぱっと見てあの体育館内の養生だの椅子のセッティングだの地元有志の労力は大層なものだったことが推測されます。
相良には500席のホールがある「い~ら」がありますので、こちらで勝間田城に関わるイベントが執り行われたとしてもまったく問題なかったと思いますが・・・。
特に目玉は先生の講演でしたし。そもそも椅子だの音響だの土足対応だのする必要はありませんからね。
まぁ相良城に対する相良と榛原地区の皆さんとの考え方に温度差があるのと同様でしょうが。
さて、昨日は「音羽屋」尾上菊五郎について広楽寺二題を記しましたが、いかにも唐突な流れではありました。
これは表記「おとわ」という名からの連想で先にそれを記しただけで意味はありません。
ただ「おとわ」繋がりというだけですね。
この「おとわ」は実は次の大河ドラマ「女城主信虎」の幼名なのでした。「おとわ」→「次郎法師」→「井伊直虎」の変遷です。
ただしこの「おとわ」という名は創作です。
小和田先生によれば、直虎に関わる井伊家の文献のどこを探しても直虎の幼名は出てこなかったと。
しかしドラマでは幼少期の直虎から描くことになりますので当然に名前が必要、「スタッフみんなで付けました・・・」そうです。
先般菊川の先生の講演では井伊家藤原南家説についてのお話があったことを記しましたが今回は彦根藩に入った井伊氏による「寛政重修諸家譜」からの「藤原北家」説の否定を示唆する証拠を提示されていました。
これは井伊出自を藤原南家説に導くもので、また勝間田・横地あるいは相良氏と同系を意味しています。
まずは先生は新井白石による「やんわりとした指摘」について指摘していました。
それは北家出自の元、「藤原利世」の存在です。
この人の名は藤原家の系図(「尊卑分脈」)に出てこないことを新井白石が調べ上げていた(「藩翰譜」―ほとんどこれに従えばベースを自己申告的にまとめた「寛政重修諸家譜」とは違ってしまうといいます―井伊家に限らず)のですが、当時さすがに大大名の井伊氏に向かって直接的指摘はできようもなく新井白石は「(藤原利世の名は)尊卑分脈には漏らしうるやもしれぬ」と結んでいるといいます。
要は「寛政重修諸家譜」の井伊家出自は「創作」であるという気持ちがそちらに出ているということです。
また小和田先生は勝間田・横地系と同族であることを示唆するような名の羅列、史料の並びを各史料中抜粋して記していました。
小和田哲男氏資料より
①保元物語官軍勢汰へ幷に主上三条殿に行幸の事
「遠江国には横地、勝田、井八郎」
②「吾妻鏡」建久六年(1195)3月10日条 頼朝の供奉人
270人のうち・・・・
『野瀬判官代 安房判官代 伊達次郎 岡邉小次郎 佐野太郎 吉香小次郎 南條次郎 曾我小太郎 二宮小太郎 江戸七郎 大井平三郎 岡部右馬允 横山權守 相模小山四郎
猿渡藤三郎 笠原十郎 堀藤次 大野藤八
伊井介 横地太郎 勝田玄番助 吉良五郎 浅羽庄司三郎 新野太郎 金子十郎 志村三郎 中禪寺奥次 安西三郎 平佐古太郎 吉見二郎 小栗二郎 澁谷二郎 武藤小次郎 天野藤内 宇佐美三郎 海老名兵衛尉 長尾五郎 多々良七郎 馬場二郎 筑井八郎 臼井与一 戸崎右馬允 八田兵衛尉 長門江七 中村兵衛尉 宗左衛門尉 金持二郎 奴加田太郎』
③永享の乱に出陣 横地兵衛尉 勝間田弾正 井伊弥太郎
④「永享以来御番帳」
勝田左近将監 横地太郎 勝田能登入道 勝田弥五郎
②は今後の参考資料のため羅列させましたがこの「井伊 横地 勝田」の並びは偶然とは思えませんね。
尚「井伊」のところが「伊井」、「勝間田」が「勝田」となっていますが歴史資料文書にはありがちな「あて字」です。
①の「官軍勢汰へ」は大津「瀬田」のことですし「聞き書き」主体であったからですね。
特に井伊の場合①の如く「井」のみで「伊」が付いていない記し方がありますが、これは聞き書きとしては元々は「いい」というか「いー」であり、元々は「井」が正解だったようです。
井伊谷の事を昔から「井の国」とも呼んでいました。書面に記した場合「井」だけでは読みにくいこともあって「伊」の字を後からつけたという説が有力のようです。
これは「紀伊」(きー)を「紀の国」と呼んでいたものがいつからか「伊」が付いたのと同様とのこと。
画像は井伊家藤原南家説を支持する有力な系図(小和田先生資料より)。最後の画像が「百家系図稿」。その手前が「井伊氏略系 宝賀寿男 古代氏族系譜集成 上」。維遠の息子維頼の系譜が横地・勝間田・相良・井伊とあります。
今はこの系図が常識で「寛政重修諸家譜は参考まで・・・」というのが歴史のスタンスのようです。
尚④「永享以来御番帳」に一族羅列に井伊の名が出てこないのはこのころから東遠から西遠への勢力と変化した可能性が考えられます。
①②③は藤枝市郷土博物館の特別展のちらし。
小和田先生の講演は12月11日日曜日1400から。
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河東村出身者 (火曜日, 15 11月 2016 05:30)
わかりやすい解説をいただきありがとうございます。
系図には見えませんが、菊川市嶺田の井伊家(たぶん高天神城のところに1180年に砦を築いた一族)もやはり横地・勝間田と同族だったのでしょうね。
今井一光 (火曜日, 15 11月 2016 08:27)
ありがとうございます。
嶺田の件では井伊と東遠(横地等)の関わりを推測させるに
特筆すべき資料がありました(井伊直勝寄進状)。
また記してみます。
河東村出身者 (火曜日, 15 11月 2016 08:52)
嶺田の北側の「ごはんをよそった碗にそっくり」いいもりやまとの関係も気になるところです。いいもりやまは、高松神社の中山文書にも出て来ているようですが、知識不足で読めない、、、
今井一光 (水曜日, 16 11月 2016 18:25)
ありがとうございました。
「いいもりやま」の件は知りませんでした。
高松社はいまや駐車場はネズミ捕りのメッカという形容が当たっているような神社ですね。歴史から見るかつての崇敬一宮と賑わいが嘘のようです。
今度また散策してみます。
中條秋一郎 (水曜日, 16 3月 2022 12:02)
横地家の家系は源義家の庶子、横地太郎家永とされ、その子どもが横地、勝間田、井伊を名乗ったという有力な説があります(松本芳徳「史実横地一族」)。これが通説であり最も史実に近いと考えています。井伊直政の家臣には、西郷、横地、戸塚をはじめ遠州でおなじみの氏も確認できますので、井伊家もその流れのように感じます。したがって相良氏とは別の系譜ではないでしょうか。
今井一光 (水曜日, 16 3月 2022 13:48)
ありがとうございます。
当地の相良氏の以前からの伝え聞いているのが藤原南家で諸説入り混じりますがずっとそれを踏襲しています。系譜については各家都合よく記すことと時間があまりにも経過していることからハッキリとした確証はつかめません。
一応の目安、その流れを推測しています。
神別天津神 (金曜日, 06 5月 2022 00:41)
井伊が奉公衆に入ってないから御番帳に入ってないのではないですか?誰か井伊家の人間で奉公衆になった方はいますか?
中條さんのコメント内容が一番納得いく答えだと思いますが、藤原の子孫ってのは元を辿ると信憑性が皆無の事が多くて、勝間田一族の者では足利将軍の弟の直義?だかに、源氏から藤原への改姓を指示された者がいますし、横地・勝間田が歴史に登場してから一貫して源氏に従っていることを考えると、源氏のほうが信憑性が高いと思います。
が、しかし井伊家の頭領が江戸時代から代々掃部頭を名乗っていることが少し気になります。なぜならば、掃守王の息子の小月王が信濃へ臣籍降下した時に「勝間田」を賜姓したからです。
素人にはわけわからんですが、ハッキリ言って一筋縄では解明できないと思ってます。
今井一光 (金曜日, 06 5月 2022 16:18)
ありがとうございます。
同感です。
御指摘の通り、「わけわからん」が本音です。
敗者、滅亡組は勝者に歴史をリセットされてしまいますし、歴史に残った方は
都合よく出自を変えていきますからね。
遠江三十六人衆時代くらいまで思いをはせてみたとして、各々の出自は多様であった
事でしょうね。
私が今後それらを記す際は「説として」を冒頭につけるべきであって「わからないこと」に対しての推測は「私はそう思う」であったとしてもあくまでも断定邸的な表現は避けるべきかと思ったことです。
まぁ、私も素人、歴史への思いは勝手な主観に走りがちになりますが。