歴史小説というもの、それなりに小説家はスポットを当てるその事象について事前に周辺の深堀りをし研究していくでしょう。
ただし史実にあまりこだわり過ぎる必要はありませんね。
なぜなら小説(フィクション)だから。
また「史実」などと軽々しく書きましたが、そこのところもだいたい一つしかない真実(それも通説)の他に2~3の説も控えていますし、通説であったとしても推測の域を出ていないものだったりします。
要は詳細不明なものばかりということですね。
そんな中、「時代小説」といえばやはり頭に浮かぶのは司馬遼太郎です。
私はそれほどの氏の読み物に触れていませんがやはり氏の作品は別格です。短編も多くてまた読みやすいのもいいですね。
昨日記した若江城といえば氏の記した「若江堤の霧」があります。時代は城も廃されてこれといった戦闘もなくなった豊臣時代まさに終焉の頃のお話でした。
そこではこの若江という地が再び世にその名を表しましたが、と言っても地名よりも表記木村(長門守)重成~木村長州~という人物あってのものだったでしょうが。
そもそも「木村重成」については出自不詳というのが通説ですが後世色々推測が端折って「父は秀次付であの事件で切腹」説があたかも正論の如くいわれる面々もいらっしゃいます。
母は秀頼の乳母の宮内卿というところはご存知のところ、しかし父親の方となるとやはり不詳は不詳なのですね。
小説でも「不詳」を直接記して近江出自を採用していました。
「巷説では、地侍佐々木三郎左衛門の子で関白秀次の家老だった木村重玆の養子ともいう。よくわからない」でした。
その彼の容姿は「清げ」で「やさしゅう」が「りりしゅう」そして大坂城内一万人いるおなご衆の注目の的、超がつくほどのイケメンだったといいます。
さて、大坂城から若江は司馬遼太郎の仕事場から近いということもあって氏が小説内で大坂界隈の地を記すときは本当に詳細です。現場に生活感がなければああは記せないでしょうね。
それでは「若江堤の霧」の中、夏の陣で大坂方が城を出て東軍を迎え撃つ際の記述を記します。人名も羅列しますが、各豊臣方の個性的武将たち。いつかは踏み込んで記してみたいところです。
「五月六日、午前零時から二時すぎにかけて、全軍が大坂を出発し三街道にわかれて東進を開始した。
こんにちの電鉄地図でいえば、阿倍野のターミナルから出ている近鉄大阪線の沿線を主力決戦部隊がゆく。
後藤又兵衛の隊がまず先行し、つづいて薄田兼相(すすきだかねすけ)・井上時利・山川賢信・北川宣勝・明石守重(全登)・長岡正近
それに城方で最大の兵力を持つ真田幸村・毛利勝永の諸隊がつづく。
この別動隊として奈良街道、十三街道、八尾街道から河内に入り込んでくる東軍をたたくために長曾我部盛親五千の部隊が
こんにち 上六のターミナルから出ている近鉄大阪線の沿線を東進する。」です。
木村重成は当初は京都方面からの敵の動きの備えを命じられていたようですが、その方面からの進入は無いとみて遅れて長曾我部盛親隊と平行して近鉄大阪線の沿線を東進したとあります。
とにかくこの司馬氏の記述は地図を開きながらであれば大阪の町を知らなくとも何とかその情景はイメージできるようになっていてわかりやすいものがありますが、これは司馬氏の書斎がその「近鉄大阪線の沿線」にあってまさにローカルだったからでしょうね。
だいたい関東人に「上六のターミナル」と言っても絶対に通じませんね。これは「天王寺区上本町六丁目」のこと。
いくら何でも地元チャキチャキの略語を記すなんて・・・
城方全軍は若江・八尾の方向に向かっていることがわかります。
昨日も記しましたがその方向はまったくの平地で河川と湿地帯程度で迎え撃つにもさしたる要害性はありませんね。
力攻めでの平地戦となれば家康の得意技です。
充分城方武将はそこのところは承知の上でしょうから城を出て討って出ることは既に彼らの頭の中には「どう死ぬか」のみしかなかったのでしょう。
昨日記した若江城の石標のある「若江小学校東」からスグの交差点にある「若江木村通」の標識に目が留まります。
その「通」は一方通行ですがそちらを入ってスグ、その先に「東大阪若江南郵便局」が。
その向こう側、左を見て歩けば木々のこんものとした場所がわかります(場所はここ)。
このあたりに重成の陣場があったようです。
こちらには後世建てられた木村重成の銅像がひっそりと佇んでいる姿が目に飛び込んできます。
「二間一尺五寸の直槍(すぐやり)」<若江堤の霧>より~を右手に持ち、どっしりと座する二十二歳の若武者でした。
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野村幸一 (金曜日, 11 11月 2016 08:47)
真田丸に木村重成登場してますね。イケメン!この俳優さんは以前仮面ライダーウィザードを演じていた人です。
記録にもイケメンと残っているのですね。歴史に残る名前でも出自不明結構あるのですね。
戦国武将や武士なんかだと、右衛門、左衛門、兵衛などの名前の後に実名がありますよね。今井権七でいうと兼行ですね。私の先祖は実名あったのかな?とよく思います。江戸期は多分無いと思いますが初代は野村庄右衛門○○とか名乗っていたのかなと妄想します。
今井一光 (金曜日, 11 11月 2016 14:05)
ありがとうございます。
木村重成の文献上の「イカした」という当時の評価はルックス
よりも死地に向かう心構えと所作教養から滲み出てきたものでしょう。
特に「兜の空焚き」は首を取られた後の事への配慮であり、後世人々(特に大阪人)の
悲哀含む讃嘆が今のようなアイドル崇敬のようなカタチとなって彼への「無念詣り」となったのだと思います。
出自不明は当然ですね。450年も前の話で以降の文献と来たら「読み物」が主体。
過度な演出が推測されるわけで、あまり信用というものができないのです。
野村幸一 (金曜日, 11 11月 2016 21:26)
読み物が主体なのですか。真田十勇士みたいなイメージが強いのですかね。実在する人物だけど脚色されすぎてるのですね。"幸村"も同じようなものですね。
今井一光 (金曜日, 11 11月 2016 23:08)
ありがとうございます。
真田十勇士は完全なる作り話ですからこの木村重成に伝わる話と比較するのは
彼に申し訳ないことです。
その時の木村の若くしての品格やその容姿と真田信繁の不細工(歯抜けの白髪)さ
については歴史的確定でしょうね。
野村幸一 (土曜日, 12 11月 2016 00:28)
ブログとは全く関係無い話なのですが、江戸北町奉行の石谷貞清という人物はご存知ですか?出自は遠江の掛川のようです。野村家に関係する私の曽祖母の出自の家は掛川の石田姓なのですが、この石谷貞清の位牌が何代にも渡り安置されているそうです。その石田家の先代がルーツ調査を行ったそうですが、石谷貞清との繋がりを発見できなかったようです。謎ですね。共通点は名字の石だけです。
今井一光 (土曜日, 12 11月 2016 08:27)
ありがとうございます。
まだブログには記していませんが、掛川城の北に「美人ケ谷城」という城があります。
ブログ既述の倉真城方面へ行く(右方向)道の直進した辺りで掛川城が見えるくらいの近さです。その「美人ケ谷城」が別名「石ケ谷城」で当地には「石ケ谷」という地名が残ります。
そして石ケ谷と西郷はの名のりは同族と思われます。「西郷」といえば秀忠の母、西郷局が有名ですがその生誕地でもあり、遠江36人衆にも登場する名でもあります。
掛川市内側に西郷局生誕地がありますがその西に古墳のある丘陵があってその麓が「溝江」です。そちらにいくらかの墳墓石塔がありますが、そこの看板にこうあります。
「現在溝江の中島にある霊栄大明神を祭祀する石田家は石ケ谷一族の末裔か一党・・石田正人家には石ケ谷系図が保存されている」でした。
今井一光 (土曜日, 12 11月 2016 08:46)
倉真城方面へ行く(右方向)道の直進した辺りで→
倉真城方面へ行く(右方向)道の曲がらずに直進した辺りで
野村幸一 (土曜日, 12 11月 2016 09:05)
「現在溝江の中島にある霊栄大明神を祭祀する石田家は石ケ谷一族の末裔か一党・・石田正人家には石ケ谷系図が保存されている」
こちらに書かれた石田正人さん。父から聞いた石田さんと同一人物かと思います。正人氏の父親が平八郎さんといい、私の曽祖母の弟になります。その平八郎さんが昔ルーツ調査をして巻物の系図を作成したそうです。で、石田家の系図を調べていくが石谷貞清との繋がりを見出すことができなかったそうです。なのに、石田家代々にわたり石谷貞清の位牌が伝わってるそうです。それを聞いてそにらにも俄然興味が湧き、同じ遠江のことなので今井さんなら何か知ってる事があるかと思いました。当家の系図にある石田冨貴が曽祖母です。
今井一光 (土曜日, 12 11月 2016 09:24)
なるほど了解しました。
きっと「石田」は「石谷の田」に住したことの意でしょうね。
野村幸一 (水曜日, 30 11月 2016 00:44)
お世話なります。
前述の石谷貞清関連の系図の写しを近々入手できることになりました。
霊栄大明神を祀る祠や九曜の石のある山は石田家の宅地内にありその石田家の土地は石谷家の館跡だそうです。
今井一光 (水曜日, 30 11月 2016 08:17)
ありがとうございます。
面白くなってきましたね。
動くことによって知ることは多いです。
新発見の報を楽しみにしています。