応仁の乱の導火線発火点はここ 東大阪若江城

「まさか」はやっぱりありましたね。

誰かが言っていました。これで中国が戦争を仕掛けてくる・・・?

これは「尖閣主張の後ろ盾が消える」ことを言っているのですが、まぁそんな物騒なことをいわずにアメリカ一本槍の外交もやめて色々なところと膝を交えて言葉とコミュニケーションで物事を進めてほしいものです。

それこそ「政治」担当者の力量というか存在意義なのですが・・・特にこれはちょいとお寒いような気もします。

 

「TPPの雲行きワルイ」の質問に「禊の済んだ?」あの人が、新しく大統領になる人に「勉強してもらう」の発言には・・・いやはやの感。何様でしょう?

また「大統領が変わる前のオバマさんの間に交渉をすすめる」などもまったくセコさ丸出し。

 

さて、本日もちょっと前の画像を。

以前行った東大阪の司馬遼太郎記念館訪問の際に足を伸ばした場所です。この場はあまりにも「登場人物」が豊富。

私なりに整理する意味でざっと箇条書き風にしてみました。

と言いながらも城の遺構としてはただの石標だけでさして見るべきものはありませんが・・・。

 

こちら若江城(場所はここ)は南北朝期以降に河内守護、畠山基国が築城したといわれる城(城主は守護代遊佐氏)で、主に戦国期の始まりといわれる応仁文明の乱の、その騒乱のきっかけともいわれる畠山家中のお家騒動の中、取ったり取られたりの争奪戦となった城です

 

畠山家は主に河内、紀伊、山城、越中守護で将軍家一門の御三家。斯波氏・細川氏・畠山氏のうちで管領(総管頭領)職を交代で就任する「三管領」の一家です(他に四職として赤松・一色・京極・山名の四家があり)。

一言でその名家たちが勝手に家中でドタバタ劇を繰り広げて弱体化し守護代や有力家臣に立場をひっくり返されたり追い払われたりしたのが「下剋上」というワケです。

 

城は「四周を湿地帯(深田)が取り巻き、堀を切り掻き上げて逆茂木を並べた城」(平城)とあります。

付近には今は付け替えられて管理された河川が見られますが資料によれば古来より河川とその支流が入り組んだ天然の河川を堀に見立てた要害と見受けられます。

上記最後の画像にある「美女堂川」などは昭和の初期まではきれいなせせらぎがあったようですが今や暗渠にされて人目に触れられないようです。

 

畠山基国の孫の畠山持国時代になって持国は実子義就(よしなり)を跡継ぎに指名して隠居します。

そこに有力家臣団は養子の政長を擁して継嗣主張し、細川勝元の支援を仰ぎますが、そこで先代の父ご指名の義就の方は山名持豊(宗全)を引っ張り出したというのが事の発端。

 

というのも義就の母親の出自が遊女であったというのが定説で当初義就は石清水八幡宮に入る予定だったといいます。既定の路線だったのですね。

ずっと子が無く継嗣を養子に決定していたところに持国に実子義就ができてからその跡継ぎの件を反故に。惣領の心変わりの末の騒乱です。まぁこの手の件は家中紛争の元となることは当然で後世秀吉の秀次事件もその類でした。

 

ちなみにその母という人も色々な人の子供をそれまで産んでいたようで、当然に「誰の子供かわからない」という風説も飛び交ったことでしょう。

 

指名した先代持国が亡くなると義就はバックアップがいなくなったところで勝手なふるまいの数々から将軍義政からも嫌われ中央から追い払われて若江城に入ったとあります。

 

その後また将軍に許されたり朝敵になったりで河内から逃げる戻るの繰り返しの末、義就は最終的にこの城に収まったようですがこの人の家督へのこだわりが11年も続く洛中洛外の荒廃させた大乱に繋がったというのがそのきっかけ説で、これは合理的説明がつきます。

 

その後この城は一旦は歴史の表舞台からは姿を消して天文年間(1532)に近江佐々木六角麾下の城となってから次々と城代が変わっていきます。

六角氏が近江に加え、この地の領国経営を行っていたことも注目点ですね。この間にもたくさんの登場人物がありますが割愛しますのでご興味のある方は彼を検索してください。

この時代を見ていると将軍義政の「差配不能」を感じてしまいますが。

 

永禄の頃になると三好長好は畠山の河内の地盤を浸潤し遂にはこの城も三好氏の城となります。

その後も当地の状況はめまぐるしく変わり、信長の侵攻によってその三好氏も追われることになります。

 

信長は天正三年には河内の三好系を一掃するためにこの城に入いるなどその後も出陣の折の宿泊所として使用しています。

特に、石山本願寺攻めの楔の城としてあったともいいます。

 

よって天正八年の本願寺退去のあとの翌年のフロイスの書簡によれば「ここは今 城も何もなく ただ多数の住民の居る町」とあります(日本城郭大系)ので、もはや利用価値無しとそのころには破却されているようです。

 

また先日記した槙島城から将軍義昭が逃げ込んだのがこの若江城でした。

当時の城主はすでに信長配下に取り込まれていた三好義継(信長より北河内守護に指名される)でしたがその人の奥さんが将軍義昭の妹で三好義継からすれば将軍は義理の兄です。

信長の意図はおそらく三好義継に兄である将軍の首を取らせようというものだったことが見えてきます。

 

さすがに信長は自らの手を将軍殺しの血で汚すのは避けたかったのではないかと思われます。その意図に反して義継は義理を果たして将軍を逃がしますが信長の包囲に家臣団内通もあってこの城で自刃しています。

こちらでも義昭は将軍職未練によって他者を不幸に陥れたということです。

あの当時将軍が転がり込んできたら滅亡するくらいの疫病神感があったと思いますね。