「よくぞ聞いてくださった」という出だしで続けて「いいんですよぉ同じで・・・」と返したのは火葬場から式場へ向かうマイクロバスの運転手の方への返答がそれ。
その方は今から辿るコースについて「門徒さんでも行きと帰りは道を変えるのでしょうか?」と投げかけてくださったのでした。
これはブログでもどちらかで記していますが、「変てこな風習」
でここだけに残るのか全国共通なのか知りませんが「火葬場への行きと帰りの道を変える」というものです。
葬祭場と火葬場が近いものですから、毎度「何だってこんな遠回りを」とつい思ってしまうくらいです。
この意味不明なならいは何処でどう「熟成」されて今に至って実践されるのか甚だ不可解ではありますが、よくよくそれを説明されるについて「ついてこないようする」と言います。
まったくナンセンスな「計略」にほかなりませんね。
「亡き人が悪さをしでかさないよう振り切る」ということですが、もはやいい加減あの「遠回り」こそ見直して真面目に亡き人に向き合って欲しいと思います。
あのドライバーさんが会社に持ち帰って「検討課題」として提案いただければありがたいことだと思った次第です。
さて京都に「百々橋(どどばし)の辻」という東西に走る道筋がありました。現在もそれは町名「百々町」として残っています(場所はここ)が、特に「中昔京師地図全」(なかむかしけいしちず)という古地図にはその「百々橋の辻」として記されています(①画像)。
こちらの地図は応仁の乱後の100年程度の京都(描かれたのは江戸時代)が記されています。眺めているだけで面白い図面で国立図書館他各サイトからもダウンロードできます。
「百々橋の辻」とは勿論「百々橋」という南北に流れていた小川に架かっていたちっぽけな橋(長さ約7.4m、幅約4m)から。この橋が有名になったのは応仁の乱のまさに中心的現場となったことからですが、東軍細川勝元軍と西軍山名宗全軍の両軍が、この橋を隔てて数度にわたって合戦を行ったと言います。
京都中心地で11年間も家臣団が東西に分かれて戦いに明け暮れていれば将軍が引きこもって好きな趣味に興じる事(東山文化)も理解できるかもしれません。
とはいえ、そのことは将軍の制御不可能を露呈させているようなものでその後の戦国の世と下剋上を誘引したことも事実です。
橋は元々は木橋だったようで近年になって石橋に付け替えられていたとのことですが、何と昭和三十八年にその小川は埋め立てられて橋は撤去されてしまいました。
そこにあった橋脚の一部と石橋本体が昨日記した竹林公園に移築されて実際に橋として展示使用されています。
公園内の建屋から順路を行けば一番最初にこの石橋がお出迎えしてくれます。石仏たち同様「応仁の乱」ゆかりの橋に触れることもこの西山方面の楽しみでもありました。
②画像は地元百々町、当地お馴染み消火施設。
最後の画像「射場町」は百々町南の通りを隔てた町名。
京都は昔の町名が今も生きている街です。
やたらと古の地名をキラキラネームに変えたがる人が居ますがワルイ風潮です。
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