柏原城 近江源氏佐々木京極菩提寺 清滝寺徳源院

昨日のブログで触れました通り、近江米原の「柏原」の地は鎌倉御家人以来の守護職佐々木京極家の屋敷があった場所です。

京極道誉はその屋敷に鎌倉へ連行中の北畠具行を犯罪者の烙印を押されて死罪はもはや免れないであろうという悲哀の情念を抱き、また当人と「ばさら」的趣味が同様だったのか、武士-公家との間にも関わらず意気が合って幕府へ罪状の減免を願ったのでした(昨日のブログ)。

 

自分の(城館的)屋敷に滞留させてのことですから、殆ど接待に近い厚遇があったと思われます。昨日も記しましたが北畠が忌み嫌うべきような人でしたら我が家に連れて家に上げるなどは決してしないでしょうからね。

 

願いむなしく「そこで斬首せよ」との命がくだり、あの宝篋印塔のある山-古道猫居峠-にて処刑されたのでしょう。その通説の如くのことだとしたら道誉もかなりがっかりさせられたに違いありません。

1か月の滞留によって親交深まっていたところですから。

何よりも自分の領内、それも自分の屋敷に「滞在」する者の「首だけを鎌倉へ持って来い」(推測)ですから。そんなところも足利高氏(尊氏)と密かに通じたという理由になったのかも知れません。

 

元の館があった場所に佐々木京極家の菩提寺(場所はここ)が建てられ、江戸期になってから廟域が設けられかつ墓石が並べられたといいます(丸亀藩主 京極高豊による34基の宝篋印塔と4基の五輪塔の整備)。よって改変等がありうるのですが、比較的整然とまとめられています。

 

これは宝篋印塔石塔美術の各時代経年の推移(600年)が一か所で把握できるという意味があり、学術的研究者含めてその趣向を持つ皆さんからは崇敬と訪問必須の課題提供の場でもあるのでした。あたかも宝篋印塔の美術館の如くです。

 

近隣の北畠具行の宝篋印塔とは別に廟内にも彼の宝篋印塔が建っています。小振りながら古(いにしえ)の形式を保ちます。

またこちらにも道誉の墓が並んでいます。勝楽寺と2つ目ですね。

このような家系集合墓群はそう珍しいものではありませんが、佐々木家が鎌倉初期からの名家であるということから時代的価値が高いという事は言うまでもありません。

 

画像はかつて私が行った場所の中から、掘り出し物です。

当時は、その石塔に強い美的感覚は持ち合わせていませんでしたので、カメラも安物、しつこいほどの熱写はしていませんでした。ここにあらためてその壮観な図を見て再訪を誓ったのでした。

 

たくさんの墓や廟が立ち並ぶ中、墓域内一段高い場所に佐々木氏の祖である氏信塔を右端に18基が並んでいます。

何といってもこの佐々木氏信の塔がこの地での一番の古の美を誇っています。

氏信の父は佐々木信綱、母は執権北条義時の娘でいわゆる佐々木四兄弟の四男。ちなみに兄たちは大原重綱、高島高信、六角泰綱でのちにその一族の争いが戦国期に江北浅井の下剋上を招く事となります。

佐々木氏信が京極高辻の館を継承したことから「京極」を名のって京極家の始祖となりました。江北の領地では「高島」「伊香」「浅井」「坂田」「犬上」「愛智」の六郡です。

 

氏信の墓石創建の年代が、「永仁三年乙未-1295年-八月十三日 相当百ケ日忌辰造立之」と判明していることもその出自を確かなものとしています。

 

ちなみにその宝篋印塔の川勝政太郎氏の絶賛の評価を転記すれば・・・

「重厚にして洗練された名塔。基礎側面は輪郭内に見事な鎌倉式格狭間、内部に近江文様の三茎蓮花、上端は抑揚のある反花、塔身月輪内の雄渾な金剛界四仏(東-阿閦、南-宝生、西-阿弥陀,

北-不空成就)種子、笠の隅飾は三弧輪郭内に蓮座と小月輪に梵字「ア」、関西形式が完全に整備されて見事である。」と。

 

⑬が高氏。⑭の右端の墓石と⑮が氏信。

最後の2枚が北畠具行の供養塔宝篋印塔。宝珠の部分は「パーツ取り」でしょうね。

最後から3枚目と4枚目が京極高豊、中興墓域整備者自身の墓。

三重塔も彼が建てたもの。

 

墓域参詣は300円。⑩門の入口に掛かっている箱に納めます。