月輪(がちりん)好きの私としては11月14日(月)の晩の天気が気がかりです。
宣伝文句としては「68年振りの天体ショー」だそうです。
月の軌道が地球に最接近して、それが68年前と同様だというものですが、かなり月がデカく見えるそうです。
月が地球に最接近するのはその日の20時21分で「満月」になるのが22時52分という時間。
明るさ3割増しというからかなりのものでしょう。
滅多にお目に掛かれるものではありませんので今から楽しみにしています。前日13日の日曜日は小和田先生が勝間田に来られることもあってそれまでは晴れでいて欲しいものです。
さて、先日は室町幕府終焉のタイミング(元亀→天正)について記しました。
本日はかつて私が訪れてHDの奥深くに沈んでいた画像を発見、懐かしくまたあらためてこちらの宝篋印塔のカタチの良さに感動していたところでした。
それだけではありませんね、テレビの中ではどこもかしこも出鱈目な混雑やら無慈悲な行動をする人の事案ばかりの報道をしていますが、その喧騒から離れて心を癒す場にはまさにお誂え向きというのが墓のあるあのような場所のことだと思った次第です。
場所的には米原の柏原という地です(場所はここ)が、鈴鹿山系と伊吹山系に挟まれた歴とした街道筋。現在はそちらを東海道線が通っていますがかつては中山道と北陸道の分岐点でもうしばらく東進すれば関ケ原という立地です。
その地は鎌倉御家人から室町幕府創世期に「ばさら」として名を馳せた京極高氏(佐々木道誉)が当初この清滝の柏原館(現徳源院)を拠点に北近江を治めています。
この墓の主、北畠具行はこの京極高氏の手で斬首されていますが、当時は高氏は鎌倉方でした。
北畠具行は元弘の乱(1331年)の後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕蜂起(笠置山またはこちらやこちら 笠置寺石仏)の際にその首謀者として鎌倉方に捕縛(1332年)さたものです。
当然に幕府方からすれば公家とはいえ大罪人ですから「鎌倉に連行せよ」の指令が京極高氏にありました。
一説では高氏はこの敵方罪人の北畠具行と気があってしまったようで、自らの館に滞留させて幕府方へ彼の赦免、あるいは減刑を嘆願したといいます。
結局はその願いも空しく、即刻処刑の命が下ったようです。
この説は後世京極高氏創作の美談との横やりもあるようですが、本当に最初からその気がなければさっさと鎌倉に護送するだけですから1か月も自分の屋敷内に留め置くなどということはないでしょう。
北畠具行の辞世の句の後段に「あづまの末ぞゆかしき」(鎌倉の「末」-滅亡が心待ち)とありますが、翌年の番場蓮華寺の件(京都六波羅探題の末路)から鎌倉幕府滅亡とまるで予言しているようです。
あと少し長生きしていればそれを体感できたのですが。
最後から3番目の画像の奥の山道の入口にこの辺りではお馴染みの獣除けのフェンスがありますのでそれを開けて「獣の世界」へお邪魔することになります。
勿論人っ子一人、二本足の動物と遭遇することはありません。
最後から2番目の画像が振り返ったところ。
伊吹山系が遠くに望めます。
宝篋印塔筒身の梵字を囲む円を「月輪」(がちりん)と呼びます。真言系の思想とその呼称です。
尚宝篋印塔には貞和三年(1347)と彼の処刑から15年後の建立の銘が入っています。南北朝期が確定できる逸品でしょう。
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