昨日は80代の方から子供の頃の思い出をお聞きしました。
先日は比木の小学校でのお話をお聞きしましたが、その方は御前崎小学校でのできごとを。
終戦の年の夏、たまたま清水の親戚の家に居たそうです。
その方の弟さんが実家の御前崎にて「のどけ」という病を患ったといいます。
それは扁桃腺周辺に異常を発し当人の苦痛とともに昨日記した疣の如くの外見上の変化(腫れ)があったそう。
弟さんの初期の腫れものはたまたま空襲警報解除後に防空壕から出てきたときの明るさで親が気づいたといいます。
結局「ジフテリア」(感染症)と判明した時は手の施しようがなかったそうです。
訃報の連絡が清水にあり親戚と地頭方の駅を降りて御前崎に向かう徒歩の道は「泣きながら」の行程だったと。
清水を出る前に握り飯を持たされたそう。
途中お昼の休憩、新聞紙に丸められた握り飯を取り出すとご飯粒が新聞紙にこびりついて、食べられるところは御飯に混ぜられた「うまくもない大豆粕」だったと。
泣きべそをかきながら食べた大豆粕の味は今も忘れられないのでしょう。食べるもののない時代の不自由も感じられました。
もっと鮮烈な思い出は、その後に起こったとのこと。
弟が亡くなったあとのこと、艦載機グラマンは御前崎小学校に向かって機銃掃射をしていったといいます。
比木の小学校もそうでしたが、まさか艦載機が学校を狙うとは・・・あの私の知っているアメリカ人の所業とは思えません。
もっとも学校には軍が入っていたといいますが上空からそのような判断ができるのか疑問です。
戦争になれば「誰を殺すか」の選別はないのですね。これを無差別攻撃といいました。
その時の戦闘機は校舎に逃げようとする軍人に爆弾を投下し、そのことによって軍人二名が亡くなっていたといいます。
野焼き同然の火葬場に弟を連れて行き荼毘に付していると、軍の一団がやって来て、学校で亡くなった二人の火葬をするから「早く片付けろ」とせかされたとのこと。
縁者たちで大慌てで燃えている「弟」をかき集めたとのこと。
その時の何もかもの「熱かったこと」は忘れられないと仰っていました。
「戦争と軍人」と「我が物顔の命令系」いうものを端的に表しているエピソードでした。
本日も年配者から価値ある「思い出」を聞かされ感動させられました。
お聞きして早いうち、忘れないようこちらに書き留めさせていただきました。
さて、昨日帰宅すると北海道の御門徒さんから地場の名物が届けられていました。拙寺檀家さんではありませんが、ここ数年来のお付き合いがあります。
箱を開けてびっくり、なんとたくさんの品物が詰まっているのでしょう。
こちらからも当地の名産を送ったことがありますが、まったくかないませんね。
見たことも聞いた事もない代物は相方が興味津々、「早く食わせろ」とせかしますので、のんびりというわけにもいかず、打敷等で荘厳された本堂阿弥陀様の前に並べてお勤め。
商品説明も送られてきましたので概略抜粋させていただきます。
①上川百万石といわれる米の産地で、大雪山の伏流水が
「北の灘」等のおいしい酒を造っている
②三升漬けは、なんばん一升+こうじ一升+醤油一升の比率
③ジンギスカンタレ。北海道は、豚、羊が主。
牛はあまり食べない。
④増毛(ましけ)はにしんで栄えた小さな港町。オッサンの聖地?
⑤そばは江丹別(えたんべつ)。
冬は-30℃を越える旭川の西の端。
⑥黒米、赤米等の雑穀は健康にイイ。田んぼアートにも。
⑦ペットボトル保温カバーは東川オリジナル
⓼甘酒は「東旭川の豪農」谷口農場。当家の元は明治期に北海
道に入った富山出身の門徒。
真宗を広めるためにお寺まで建立。
どうもありがとうございました。
本堂にカメラを持ち込んだついでに「格狭間」について追記します。
百済寺の宝篋印塔のところでも記しましたが基礎部分の荘厳レリーフされた「格狭間」とは③④などをイメージしていると思われます。まさに宝篋印塔の基礎を思います。
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