昨日に続いて百済寺での一、二の見ものを。
こちらでは本尊脇侍の二つの観音像、如意輪観音半跏思惟像,聖観音座像が見られます(非公開期間あり)。
ただし本堂内陣の中央の厨子に納まる2.6mの十一面観音像は非公開になっています。
このご本尊は慶安三年(1650)徳川家光時代に再建されたものですが、その本尊の脇侍としてあるのが如意輪観音半跏思惟像(明応八年1499画像⑩⑪),聖観音座像(明応七年1498画像⑫)でむしろこちらの方が古いですね。
勿論この両観音の威風と繊細に感動させられますが、「いいな」と思うところは御内陣はガラスの格子で区切られてはいるものの画像を収めさせてもらえるところです。
ただし小さな格子になっていますので撮影はかなり難しいですが。薄暗い御内陣にてスポットライトで照らし出されていますので、光の調整が面倒ですね。
私はそういうのには頓着しませんので適当なのですが今見ればもう少し努力していれば・・・と思った次第です。
両像とも信長焼き討ちのその前日に移動して難を逃れたという稀なる幸運な仏像で特に半跏思惟如意輪観音像の人気は高いそうです。
あの時このお堂の中に居るのは私だけでしたので、周囲に何も気を遣う事なくお顔を拝見しましたが、このような仏たちを怒りにまかせて焼き払った故に「仏敵」と称された「信長」ですが、やはり当然に「仏罰」はあってしかるべきとあらためて「本能寺」を肯定した次第です。極悪非道の最たるものでした。
また同じ空間には春日局の御持仏と伝わる聖徳太子像があります。信長の手によって焼失されたこの地に再興の手を差し伸べたのは徳川家光でした。
秘仏の十一面観音が入ったのが慶安三年(1650)と記しましたがその年に本堂、山門、仁王門等が復興されています。
一緒に落慶記念として家光より贈られたのがこの彩色聖徳太子像。その7年前1643年に亡くなった家光の姥、春日局が江戸城に遺していったものだそうです。
①は昨日記した仁王門。
そこから先の石垣は殆ど山城の如くの壮観さです。
信長が焼き払ったこの寺の比較的大き目な石を選んで安土に持ち運んだというのも有名な話。
下記の画像は「板絵石曳図額 (いしびきずがく)」です。この絵も適宜公開されているようですが、あの時は非公開でした。
こちらの観音さん二仏には今一度拝する機会があってもいいとは思いますが今度はこの石曳図も観たいと思います。
信長方人足の活気に満ちた姿と「したり顔」をです。
この図はまさに「信長の絶頂」を記した図だったのです。
焼き払った寺の石材を盗み運ぶの図ですね。
450年後に振り返って見るというズルさはありますが「必定 栄華盛衰」をここでも見たという感ですね。
石の上で音頭をとる「お調子もの」の姿を見て「今にみてやがれ・・・」とついニヤッと呟いてしまう私があります。
聖徳太子の隣の十一面観音の背後の扉の裏にご本尊の巨大な十一面観音が控えているのでしょう。
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