昨日は1400よりお取越し。檀家さん宅の御内佛の前に。
正信偈が始まってしばらくすると電話が立て続けになっていました。
山陰方面で地震がありましたので、その揺れについて、「状況伺い」の電話が縁者からあったようです。
鳥取県といえば終戦間際から終戦後にかけて揺れた一連の地震があります。あの時は4件4年連続の地震(鳥取地震1943-昭和18年9月10日、東南海地震1944-昭和19年12月7日、三河地震1945-昭和20年1月13日、南海地震1946-昭和21年12月21日)で各甚大な被害が出ていました。
この地震について全国的に知る人が居なかったのは、軍部がその被害を隠蔽しようと「(そんなものはハナから)なかったこと」にしたかったからですね。不幸な国のスタンスでした。
あの地震が「戦争を始めた仏罰」だったとは考えたくありませんしそう考えれば「ナンセンス」とお叱りをうけましょうが、今の人たちは(私も含めて)別の意味で仏罰を受ける要素があるのでは・・・とも思えなくもありません。
そのような天変地異等含め異変などに対する「非科学的畏怖」というものが欠落し「我が物顔、したり顔の『奴原』<不届きなやつら>」の傾向があったりしますので・・・。
いずれにせよ「次は東南海・遠州灘」などとはなりませんよう。たとえ空しきこととなる定めがあるにしろ・・・ただただ願うばかりです。
さて、昨日は馬淵の藪から出てきた宝篋印塔について管理するお寺が真光寺であることを記しました。
私が墓の出どころについてお聞きした方からの情報でしたが、このお寺は実は馬淵城で記した「日本城郭大系」の件、
今一度記せば
「鎌倉時代中期、建保六年(1218)佐々木広綱が将軍実朝より賞賜された馬淵荘を、その弟広定が受け継いで馬淵氏の祖とし居館をおいた」
ですが、こちら真光寺は馬淵氏の菩提寺といわれるお寺です(場所はここ)。
ここで一つ付け加えなければならないことは、もしその馬淵家の菩提寺がこの真光寺であったとすると・・・館(本郭・本曲輪)との関係を再考する必要があるかもしれません。
通例、これは殆どの場合、寺社と館の関係を考えるに、城館から北東方向(鬼門)に菩提寺を置き、また時として南西方向(裏鬼門)にも寺を置くという習いのようなものがありました。
地図を開いていただければお分かりの通り真光寺を北東方面に見る位置と言うと、先般記した馬淵小学校の位置推定は少々甘かったかも知れません。
1、2ブロックほど南西にずれたあたりが馬淵城と考えるのも一つのスジでしょう。
たとえば北東の真光寺に対して南西側を見ると浄住寺や宇賀神社がありますので、そのライン上をと逆算してみて城跡を推測するのも面白いかもしれません。
上記「大系」の文言に続き、
「佐々木氏没落後もここにその居を置いた」とあり、その根拠として真光寺に残る五輪塔の銘について指摘していました。
①慶長九年十一月四日 王寿真栄女 馬淵半右衛門尉
②慶長十六年二月廿五日 行誉宗西士
宗西息為宗西建之馬淵半右衛門尉
③干時寛永四年七月吉日 為霊位真栄自為馬淵半右衛門建之
④寛永五年七月廿日 妙音信女馬淵半右衛門内方
寛永十一歳為□厳□権少僧都<信詮>□馬淵半右衛門方
現在の当地に馬淵氏の名は見当たりませんが五輪塔の銘によれば江戸の寛永期(1624~1645年)までは確認できるようです。
その後この地を後にして近隣に散らばっていったのでしょう。
画像はすべて真光寺。浄土宗のお寺ですね。
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