一晩明けて、イラク戦で報じられた様々を見まわしてみれば(これは奥の墓道氏からの御指摘で気が付いたのですが)物議をかもしたポイントがありました。
結論から言えば「誤審」が日本にとってラッキーな結果をもたらしたということです。
私も1点目の本田から清武へのパスはまぁ99%オフサイドだと思います。「墓道氏」から送られてきた画像を見ました。その時はたまたま画面から目を離していたのでしょう。
ということは・・ホントは「1点目は幻」だったということも・・。
いつも相手チームがインチキで勝っているが如くの不公平感をぶちまけている日本のサッカー界ですが、何のことはない、今回は完全に日本に味方したジャッジと言われても仕方ない試合でした。
そもそも2点目ですが、「ロスタイム6分」はそうは聞かない「時間」でした。いくら露骨な遅延があったとしてもです。
ちなみに試合のジャッジは韓国でしたね。日本サッカー界は韓国によく御礼申し上げなくては・・・それとも持ちつ持たれつのお仲間、どこかでお返しするのでしょうか。
これまでの日本が中東勢と戦って中東寄りのジャッジに泣かされたと主張して「中東の笛」という言葉で揶揄するならいがありますが、今回の件に関して今度は「極東の笛」とイラクはじめ中東で言っているようです。
まあそういうものすべてを含めてのサッカーですが。
また「リスペクトされないから腹が立った」なる語を吐く選手に「?マーク・・・」というところでした。
実の伴わない「ビックマウス」は流行らないと思いますし、もうそろそろ聞き飽きました。一番の違和感は彼のグラウンド内での動きと外に出た時の口の動き。
さて、あの時の野村町滞在時間は1時間程度でしたが、ブログでは今日で連続3日目となります。
歩けば「気づき」がたくさんあって、いつも家に居てボケ面していることのバカバカしさをつくづく思いますね。たった1時間ブラついただけで発見があるのですから・・・人間外に出る事は肝心、ただし口は禍の許。
「野村町」を拙寺檀家さん「野村家」の出自として興味を持ち始めてからブログにて記していますが、耳に親しい「姉川の戦い」などは当初近江地元では「野村の戦い」と呼ばれていたくらいです。
私のブログはとるに足らないことばかりで、マイナー部分が多いのではありますが、ここ「野村」に関してそれ(とるに足らない)を思うのは尚早です。まぁコレも私が記していることですからいい加減ではありますが・・・
碧蔵寺の住職に『寺の裏は昔「陣田」(じんでん)』と呼ばれていたと聞いて思わず心が騒ぎました。当初は小高い丘になっていたと聞いていましたので私はその痕跡を含めて昨日記した一本杉から周辺を歩いています。
ところがハッキリ言って小高い丘なるものは皆無。
敢えて言えば一本杉あたりのことのように感じてなりません。
途中出会った方にその話をすると「あっちの方に何か書いてある」と。すると姉川周辺に建てられているものと同様の看板を見つけました。下記画像の赤い⇨です。
標題が「浅井長政と陣田」でビンゴ!!。
というと姉川の戦いの長政軍8000の本陣があったといわれるのが野村城であったと解するのがスジですね。
小谷城から出て大依山に布陣していたところからさらに織田・徳川の鼻先となるこちら野村まで降りて布陣したといいます。
それを進言したというのが遠藤直経とあります。
平地に降りるということは一触即発の状況に成り得ますから「雌雄を決しよう」という意思表明ですね。
このことによって結果は形勢不利となったことからその責を痛感しあの時「遠藤の策」となったのでしょう。
尚、丘は昭和60年ころまではあったようですが、削平されてしまったようです。勿体ないことですね。
遺構として十分に価値あるものでした。
「陣田(じんでん)」というように泥地の中のその破壊されてしまった小山が「野村城本丸?」だったと推測します。
案内板の記述に「野村氏や多賀氏の家臣屋敷址」とあります。
ここに私の推測を記させていただきます。
題して「野村町に野村姓が不在の理由」です。
敢えてこの掲示板に「野村氏や多賀氏」と記したのはこの両者は同族だったからですね。「多賀氏」といえば古きころより伊勢神宮に準ずる近江の大社「お多賀さん」―多賀大社―(犬神郡多賀町)を連想します。そちらとの関係も大いに感じます。
また東近江に力を延ばした京極佐々木源氏の流れ、佐々木一門ともいわれる多賀氏は、当初は佐々木氏配下としてありましたが戦国期に台頭してきた浅井氏に属していったという流れはまず堅いところです。
その多賀氏より出て当地に在して「野村」を名のる者が出たというのが全国に散った野村の大元であるというのが通説です。
ところが現在、この野村町に野村姓は無いようです(完全に検証していませんが・・・)。
ところがです・・・、町内を歩いて「多賀姓」は見受けられましたし辻の掲示板には「佐々木家」の名もありましたね。
残っているか残っていないかは例の「たまたま」であってそうワケを考えるのも意味はないかと思いますが、これはあの近隣の石田三成の出た石田町(場所はここ)を思い出します。たしかその町ズバリに石田姓は無かったと思いました。
推測するに野村氏惣領「野村直隆」は主君浅井一統の滅亡により信長にくだり秀吉時代には国友に2万石にまで取りたてられています。関ケ原で石田三成に倣って西軍として伏見城を攻めたのは石田とは近隣のよしみだったからでしょうか。
というわけで敗者は罪人となりますので、当地に残る縁者はこぞって各地に離散するか、名のりを変えることになるでしょう。
今でいえば苗字といえば確定的なものと感じますが、当時コロッと変えてしまうことには違和感がなかったと思います。 それによって命も長らえることが出来たでしょうし、何かと立ち回りやすかったと考えられます。
過去の都合の悪い時は名を変える、これは古今東西当たり前の処世術でした。よってこちらに残っていた野村は旧来の「多賀」や「佐々木」に戻して明治を迎えたということが考えられるのです。ちなみに苗字を「元に戻す」例は歴史上かなりありますね。
もっとも拙寺開基と遠州に同行した野村某は信長侵攻の時には石山本願寺に入っていますのでそのまま「野村」を名のったのでしょう。
思うにその野村某は遠州下向後に国友野村家の繁栄を見て少々頭を悩ましたのではないかと思いますね。国内有数の鉄砲産地です。
結果として、戦闘集団に居るよりも新天地での新しい生活(商人)が功を奏したのですが・・・。あくまでも私の想像でした。
画像①②は看板裏表。「十」の意味は看板の番号ですから意味がありません。
③は野村町の辻にある寄合所らしき建物。字名「野村」の石標がありました。あとまた、草津市にも野村町がありますね。そちらにも野村姓はなくも多賀姓は散見されます。
大雑把に言えば惣領家は「関ケ原」によって没落して歴史から消えて行ったのではありますが、しっかりとその分流は各地に残ってそれぞれの地で繁栄しているというところでしょうか。
赤丸が「野村の一本杉」。赤⇨が看板の建つ位置。
コメントをお書きください
野村某末裔幸一 (土曜日, 08 10月 2016 08:23)
調べていくと奥が深そうですね。多賀氏という名前は知らなかったです。
僕も調べてみたいと思います。
昔、本家のおばあさんからの手紙では昭和四年に火災があって昔のものは焼失してしまったと書かれていました。もしかしたら、系図や古文書などもあったかもしれませんが残念なところです。
大澤寺の古文書などで五家に関する記述、当家の初代に関する記述などがあれば…などとよく思います。江戸期の檀家制度、寺請制度が始まる前は町人や村人たちを把握する術がなさそうなので、一庶民の記録を探し出すことは不可能だと思います。個人に代々伝わるような古文書があれば大きな手掛かりになりますね。
野村某末裔幸一 (土曜日, 08 10月 2016 09:15)
野村と多賀氏を検索していたらこういうホームページを見つけました。
野村氏は衰退した後湖南地方の同族を頼った…
そうです。
今井一光 (土曜日, 08 10月 2016 10:24)
ありがとうございます。
昔のことは確りと文書にされているということは少ないので、推測ばかりです。
他のパターンをひいてきて想像するだけですね。
そこに一つの書面でも出てきたら大きくその推測も事実に近づくのですが。
みなさんはそこを探求したくて動きますがどこかで壁にあたっては頓挫している姿を見せています。
また、ルーツですが所詮狭い日本ですので、「みんなどこかで繋がっている」と考えるとあきらめがつきます。
野村某末裔幸一 (土曜日, 08 10月 2016 11:34)
確かにそうですね。ネットのどこかで見ましたが、27代くらい遡ると先祖の数は日本の人口を超えるそうですf^_^;
で、たいてい天皇に繋がる?みたいな。。
とりあえず今の所は、本家からの返事が待ち遠しいかぎりです(笑)