「布施町」は八日市市→東近江市 辻の石塔

近江散策で一番に滞留するというか、他所への移動にて通行、御厄介になるのが東近江市。

結構賑やかな住宅地や会社・店舗が並ぶ場所もあれば日本の原風景、稲作開始当初の穀倉地帯をも思わせるくらいの集落まで、色々な顔を持っている地です。

 

耳にするに馴染みやすい名ですが、これがよそ者にとっては案外厄介な市町村名なのです。

何となく「東近江」と言われてもそれがなかなか広範囲で、素人考えで同市内=近場という発想につい、なりがちになりますが、その意識が頭にあるとこれが結構効率の悪い動きになりかねません。何といっても琵琶湖畔から鈴鹿山脈にぶつかるまでその市は続きます。

 

私は勝手に、そうすることがショートカットになるという思いこみ(というか好きなのです、ダム湖畔、渓谷沿いの道とあのトンネルの長さが・・・)があって永源寺からいなべ経由桑名・四日市のインターへのコースを使用します。また滋賀県から三重県に出られるというのが何とも画期的でワープしているような連想をしてしまいます。

 

なぜにそうやたらと広範囲であるかといえば、実は例の市町村合併でできたばかりの市制なのです。旧名を並べてみれば八日市市、(神崎郡)永源寺町・五個荘町・能登川町、(愛知郡)愛東町・湖東町、(蒲生郡)蒲生町という具合です。

考えるにどの市町村も味のある名ばかりで、要はこの「東近江市」なる名称はひょっとして「キラキラネーム?」と思う次第です。

 

さて布施町は現在は東近江市となりますが以前は八日市市です。「八日市」の名称はその名の通り八日おきに市がたったという「市のまち」からの名称ですがこれが聖徳太子(574~622)の時代からそのいわれをさかのぼるといわれていますので非常に古~い歴史を感じます。

平成の大合併、ここでも「要らなかった」と今更ながら感じます。古い地名を変えるのはやめましょう・・・

 

その布施町は当地相良の「布施家」出自の第一本命の地で他の東大阪の司馬遼太郎記念館近くの「布施」や湖北木之元の「布施」とはやはりちょっとちがう・・・という感覚。

かといって布施町において布施姓を探してもパッと見、1件もなかったような気がします・・・。

 

ちなみに布施姓は滋賀湖東では同じ東近江市の五箇荘町に圧倒的に残っています。

推するに布施姓の出自はこちらの布施町というのは堅そうですが、戦乱期に五箇荘に出て、いわゆる「近江商人」として発展、やはり五箇荘の地から各地に進出する足掛かりになったのだと思います。愛知川、中山道という水陸流通ベースの利を求めての移動と集約は「市」に親しんだ者たちの当然の帰結です。

 

布施町(場所はここ)の「布施」の発祥は今でいう「財施」のことではなく、こちらの地形からきていると考えるのがスジ。

特に隣接して「布引」という住宅地がありますが双方とも「平らな地」あるいは「平らな斜面・台地」を感じます。

 

また布施の集落と布引との近くに「蛇溝」という場所がありますが、布を「引いて施す」のは「蛇の溝」を「平穏」にしたいという民の願いがあったからか・・・などと講釈したくなります。

 

地蔵堂の立看板に

「この辺りは山渓がきわめて険しく、また川は深くて淵(ふち)となって長く流れていて淵には大蛇が住み、道行く人を妨げていたが、行基という僧侶が退治した。一塊石を立てて地蔵菩薩を彫刻し安全を祈祷した・・・」と。

「山渓がきわめて険しく」の部分が腑に落ちませんが、そうだとすれば「民が平らかな地に繋げ」るなど土地改良を行ったとも解釈できます。

今の現地は「険しい」という感覚はそうありません・・・

 

昨日は相良布施家の法事がありました。

一方的な歴史話を勝手に盛り上げた感がありました。

そのついでに布施町についてのこととその季節感のない画像(数年前の春)を紹介させていただくことにしました。

 

部落内の福寿寺の山号は「無量寿山」、浄土宗のお寺です。

阿弥陀さんのお寺ですね。

集落中心地には大抵①の如くの住居図が掲げられています。

 

不自然なく五輪塔がポツリとあるシーンがイイですね。

おそらく田畑の開墾の際、出て来たものを祠や辻の石標脇に置いたのでしょう。

あれらのものたちみな室町期の匂いがしてきます。