戦国を終わりにしたい幕府  論外 丸橋忠弥

昨日記した渥美家ほか紀州に落ち着いた三河遠州にご縁のある武士団については書物では知っていたものの、以前ブログで記しましたように伊勢紀州藩領、松阪城での体験が鮮烈でした。

あのようなご縁は感動的でこの手の趣味を持ち合わせていたとしてもなかなか遭遇できるというものではありません。

伊勢なのに紀伊藩というところも「なるほど」と思うところでした。

 

その遭遇をただの「偶然だろ」と言ってしまったらそれでおしまい。

何処へ行っても「余計なおしゃべり」と嫌わず他者と交流する時間を持つ余裕に価値があります。

寡黙な方からは嫌われそうですが、黙っていたら相手の真意を引き出せませんし、ひょっとすると価値ある情報をお持ちかも知れません。よって「おしゃべり」上等なのです。

多々それを世間様から揶揄されることがありますが。

しかし仕事的には「人との交流」「論説大事」が主眼で孤独修行云々は二の次という当流にあって寡黙威厳では法意を外すことになりかねません。

 

ちなみに敢えてこちらで「行」といえば5つほどあげられましょうか。

かといって「五行」というと陰陽道になってしまいますので正確に言えば「五種正行」です。各お調べいただければと思いますが法然さんが記した「読誦」「観察」「礼拝」「称名」「讃歎供養」ですね。2文字のものは一見してわかりやすいかと思いますが最後の「讃歎供養」に関しては真宗的に以前それは「聴聞」であると仰った方がいらっしゃいましたので私は以来ソレでOKと解釈させていただいております。

まぁ基本的にそれらの五つのことができてはじめて「おしゃべり」、人と論じることができようというものです。

 

さて家康十男の頼宣が特に家康から可愛がられたのは、その性格でしょう。きっと家康の安定期盤石の世になりつつある中、勇猛武辺を想うちゃきちゃきの「戦国武将の血」というものを見たのでしょう。正室も加藤清正の娘とあって義理父の影もその後の性質に影響したことも考えられます。

 

元和五年(1619)に紀伊和歌山55万5千石で封じられて紀州徳川家の始祖となります。彼が率いたのが勇猛果敢に父家康を引き立てた遠州横須賀衆、高天神衆を筆頭とした猛者共の2世たちですね。

当時の紀州も天正期より畿内で長く続く戦乱によって人心は疲弊していたことと、天下泰平によってあぶれた国人層、武士や中間どもの戦闘員から戦いに集まっていた傭兵の類の不満が根強く残っていたわけですが頼宣は和歌山城はじめ領内整備に人材を登用して職を確保したといいます。

 

その件は幕府方からすれば、一つ間違えば危ういことになりかねません。武闘派の殿さまの許に集まった戦国通の家系の数々に戦争好きの海千山千が集結することは、同系徳川といえども将軍家からみれば決して安泰とはいえなかったのかも知れません。

 

江戸将軍家は外様よりむしろ身内を警戒する時代になっていました。外様大名たちはすでに幕府の対抗勢力として一戦交えようという気概は当に失せていたのでしょう。

 

ただし当初の幕府の政策によって御取りつぶしと改易の嵐は浪人層を増加させて、不穏分子の蔓延という思わぬ弊害をもたらしてしまいます。それが以前ブログでも記した由比正雪の乱(慶安の変1651)ですね。

 

3代将軍家光が亡くなって俄かに幕府内混乱に乗じて正雪がたくらんだ倒幕作戦で今でいう同時多発テロの計画でした。

あとになって偽造であることが判明し御咎めなしになったのですが、由比正雪が持っていた書面の中に紀州頼宣の印のあるものが見つかったために紀州は幕府方から相当に目を付けられることになって弁明書まで書かされ、一時頼宣は江戸留め置きになったほどの事件でした。まぁ将軍家の権威を今一度確認、身分関係を周知徹底させる策だったのでしょうが・・・

 

京都で天皇を誘拐しようと画策していた正雪は駿河梅屋町の旅籠で敢え無く御用となりますが、当初計画では手始めに江戸城に爆破テロ(江戸城火薬庫爆破)を挙行、大混乱に陥らせて幼い新将軍の家綱を確保しようとしたのが丸橋忠弥です。

 

どれもこれも無謀で荒唐無稽の絵空事のような計画ですが、結局は行動直前で計画が露見して捕縛されてしまいました。

ただし少しでも行動が起こされていたとしたらいったいどのような混乱が起こっていたのかはタラレバですが興味があるところです。

まぁまさか本当に倒幕が成功するとは思えませんが・・・

 

面白いのは後講釈だとは思いますが丸橋忠弥の出自に関して長宗我部盛親の側室の子というのがまことしやかに伝えられていて、時代劇ではまずソレを採用しているようです。

 

丸橋忠弥は正雪捕縛の前、最初に捕縛されてその後処刑されています。

品川第一京浜脇の妙蓮寺に首塚があります(場所はここ)。

なお⑤の豪奢な傘塔婆風墓碑は「薄雲太夫の墓」とあります。

江戸吉原の高級娼婦の墓です。何故ここにあるのかは不詳。