ロバート・ゲラー氏の「地震予知の眉唾論」は少なからず私たち遠州人にとってなるほどとその論の肯定感がありますね。
安心感とまではいきませんが(そうあったとしたら間違い千万であります)公平平等にしていただいたという気持ちです。
それもそうでしょう、年がら年中ずーっと「地震来る地震来る」と脅されて頭に刷り込まれ、時に本当に地震が来ては酷い目にあっていますからね。
祖父(13代目)はまるで地震探知機の如く、ちょっとした揺れでも褌一丁で外に飛び出していたくらいで、独自の地震感を持っていましたね。
被災予報としては確率的に日本全国皆一緒、は気持ちがスカーっとした思いもありました。
現実に最近は東海地方だけに限っていませんね。
いずれ「ローテーション」は廻って来るでしょうが。まぁ気持ちは「勘弁してもらいたい」です。
その「褌一丁」の根拠が拙寺十代目の祐賢が記した「地震記」です。
地震記はごく簡単な所感程度の略記ですが、三編に分かれていてそれぞれこのページの⇦左側に解読文を記しています。
そのうち「襖由来」についての記述があります。
九代祐厳のとき文化五年(1808)に完成した丸尾月嶂の襖絵が釋祐賢の嘉永七年(安政元年1854年)に発生した「安政大地震」によって破損したというものです。
にもかかわらず明治十七年(1884)の30年後とはいったいどういうこと?と思うところですが、これは完全に資金不足ということですね。
庫裏も倒れて本堂の瓦が総崩れ、破損した襖の修理は二の次で順位としては最下位になったのでしょう。
寺としては当初より各修復の件、檀家衆に泣きついていますが、そもそも家が倒れたりしていることは檀家さんも同じですから。仏の顔も三度まで・・・
ということで襖の修理に関して「そろそろ・・・」と声があがったのがそのころだったのです。
その有徳人たる檀家有力者の4人が発起人として明記されています。
明治十七年申八月二十日
新町 布施勘七
波津村 小山弥平
波津村 小山平兵衛
波津村 野村庄十
「おかげさま」を思います。
先般上記の野村庄十家のご縁の方より原本の提示を依頼されましたので画像。2枚ですが本日は右から左に御覧ください。
訳文はこちらです。
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野村幸一 (火曜日, 13 9月 2016 00:19)
ありがとうございます。先祖を辿る数少ない資料でございます。
欲を言えば役所で壬申戸籍なども閲覧したいところですが、今はいらぬ差別を生まぬように存在が無いものとされているようです。法務局には保管されているようですが…多分そこには、さのサン載ってます。
今井権七と五家が近江から来た内容は古文書の形でお寺に残っているのでしょうか?
今井一光 (火曜日, 13 9月 2016 23:33)
ありがとうございます。
明日のブログの方で記したいと思いますが古文書ではなく各家口伝ですね。
よろしくお願いいたします。