「向日」を「むこう」と読むなどとは東海・関東以東に育った者にとってなかなか難しいものがあります。
漢字を入れ替えて宮崎県の「日向」(ひうが)「日向灘」は知っていてもそちらの方は「知らなかった」という人が殆どかも知れません。
京都府向日市です。
「市」のくくりではその面積の狭さにおいてベスト3に入るといいます。
大都京都市に隣接、昨日・一昨日と記した長岡京の「長岡」を冠にしている「長岡京市」に挟まれている立地となります。
そもそも「長岡京」というかつての「首都」の時代があったということは、私たちが最初に日本史というものに触れる段階で、まずは端折って先生たちが授業を進めていき、ごくサラっと「長岡京」の名をあげるのみだったような覚えがありますね。
要は「平城京」と「平安京」があまりにも有名すぎるうえ、その間の「長岡京」の時代が短いうえに、その時代の中に何か華々しさを見いだせなかったためでしょうね。長らくその場所すら分からなかったともいいますし。
そして何より面白いのは、大極殿の発掘標識の発行先を見てお分かりの通りそもそも長岡京跡と言われている遺跡はそのほとんどが「向日市」であるということです。
旧乙訓郡から向日町そして市制となっていますがこの市(町)だけはずっと「向日」で未だかつて合併併合もなく本家本元の長岡京の町として「向日」はあり続けたのでした。
では「長岡京」をさっさと名乗ればいいではないかと思いがちになりますが、それは違いました。こちらに住まう方々は古くから文化を大切にすることを頑なに守って捨てなかったという思想を感じます。
それは主に、長岡京遷都は延暦三年(784)ですがそれよりも歴史のある神社があったからだといいます。
それが向日神社(場所はここ)です。
地図を見ると「67号線」とありますがその街道が古くから西国街道と呼ばれていました。
やはり聖徳太子の太秦の広隆寺と同様、帰化人の「秦 河勝」(はた の かわかつ(→芦浦観音寺)の名が出て来る地ですが、神社の案内板によれば創建が養老二年(718)とかなりの古さです。
長岡京遷都よりも半世紀以上。
そして朝廷からの崇敬を集めていたという資料も多く残っていることから神社そのものが繁栄しこの地がこの神社を中心にあったことがわかります。
私にはその手の知識やその価値感というものは持ち合わせていませんが、あの著名な東京代々木「明治神宮」本殿の創建にあたってこの神社を手本としたという件からその世界ではかなりの意義ある社殿であることが察せられます。
社殿は現在重文指定になっていて、江戸期はしっかり徳川家の庇護を受けていたこともわかります。
西国街道から長い参道がありますが、車で上がることができます。
①画像は昨日記した朝堂院跡公園近くの阪急西向日駅前。
③は旧郡名「乙訓」(おとくに)を名とする乙訓寺。
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