青朱白玄-東南西北-春夏秋冬  四神  長岡京

「せいしゅはくげん」(青朱白玄)はモノの覚え方。

1973年に高松塚古墳の記念切手が発行されましたがそれ以来その4つの言葉(方角等を表わす)たちを耳にするようになりました。

 

今考えると「のせられたな」とつくづく思わされる切手収集。小遣いを握りしめては発行日に郵便局に母親を頼み倒して並んでもらったり、デパートの切手売り場のショーケースを覗いてはあれが欲しいこれが欲しいと時間を過ごしたものです。

おかげでごっそりと切手の山が残ったわけですが、以前はそこそこの値で取引されていたものがブームなど消え失せて、見れば殆ど今は額面通り。お上の方でバカの一つ覚えの如く記念切手を刷りまくって発行したため市場に溢れかえったからでしょう。

切手・古銭売り場など今何処を探してもありゃしません。

 

大学時代に金欠病に陥ったとき持っていた記念切手を集めて金券屋に駆け込んだことがありましたがアレはいけませんね。

足元を見られたのか散々叩かれた覚えがあります。

 

さて「せいしゅはくげん」(青朱白玄)。

1973年発行の高松塚古墳の記念切手が発行されましたが以来それらの語を耳にするようになりました。

壁画のうち3種類が切手となりましたがそのうちの「青龍」がその「青朱白玄」の「青」です。上記一番最後の画像。

以後、古墳の維持管理修復の度に耳に入って来たものですし、歴史というものに触れていればどこかしらにその発想を元として関わる言葉にぶつかりますし、大学受験で日本史を選択している方は是非に暗記を。

お酒の「清酒~」とこじ付けてもイイかも知れません。高松塚古墳は試験頻出ですし。

 

これは中国発の神話に出て来る霊獣の「四神」で朝鮮半島経由で日本にやって来たものです。

特にそれぞれ方角と四季を表わしますが「青朱白玄」-「東南西北」-「春夏秋冬」となります。

 

「青朱白玄」を順番に記せば「東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武」となります。そしてまた春が青龍・夏が朱雀・秋が白虎・冬が玄武です。

「四神」については各種画像イラスト等サイト上に溢れていますので各検索を。また「青春、朱夏、白秋、玄冬」というふうに年齢をイメージするように使うことがありました。

 

そして「天子南面・臣下北面」にありますよう条坊制に宮城(内裏)から南に延びる大路を「朱雀大路」そちらの南に向いた正門を「朱雀門」とも呼びました。

南は夏のイメージとは私と同じ・・・。

「青春」などの語は頻繁に耳にしますし小田原の北原白秋の「白秋」もそちらから。1日の太陽の動きに人の一生を準えたようでもあります。

 

さて、画像は長岡京の大極殿跡です(場所はここ)。

昨日記しましたが細川藤孝がこちらの近郊の勝龍寺城に入って名を「長岡」に変えたのはその地の古くからの地名だったからですね。

期間は約11年と短期ではあったものの都があった地です。

 

現場は今も発掘作業が行われています。住宅地の中の小さな公園風の敷地であり、本当はもっと広いエリアを発掘したいでしょうね、関係者は。

大極殿のあった場所から南側(前庭)に今でいう大きな掲揚台の如くの朱色の柱(複製)が立っています(画像②③の後ろ側)がまさしくそれは旗を差すものでした。

 

これは朝賀式という律令制時代の天皇の儀礼(元日の朝に天皇が大極殿において官の拝賀を受ける行事)につきもののスタイルでこれも中国の儀式に準じたものだったようです。

それがこの掲揚台に立てられた「宝幢」(ほうどう)と呼ばれるもので全部で七本が並べられました(画像⑥早川和子氏)。

 

戦国期の旗差し物のハシリのようなものでしょうね。

こちらの七本の位置が大極殿に向かって東の青龍・南の朱雀、そして「日像・鳥像・月像」の三つがあって西の白虎・北の玄武の順でした。

面白いのが方位に関しては「東南~西北」で麻雀の呼び名と同じです。小学校で教わった順番通りではない「東西南北」の呼び方に違和感がありましたがこの麻雀の順序と中国発の「宝幢」の正式なお飾りの順序に整合性を見た思いです。

また「日と月」が真ん中に掲げられているのは熊野曼荼羅にも掲げられてたように自然世界への畏怖なのかわかるような気がしますが中央に「鳥」というのも新鮮なところです。また「七本」という数字も・・・